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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

『サラエボのゴドー』のことなど

2021-08-31 | 日記
 この一週間近くの日々、ひどい倦怠感に見舞われてほとんど何もせず横になっているという時間を過ごしていた。明らかに薬の副作用なのだが、点滴で体内に注入する薬は悪い細胞を攻撃すると同時に健全な細胞にも影響してしまうのである。そのほか毎日のように服薬する薬の注意書きを読んでも、そのどれもが副作用として発熱、喉の痛み、出血、体のだるさ、めまい等々が並べ立ててある。これでは病気になるために治療しているようなものではないのかと言いたくもなるのだが、従順かつ素直な患者である私はそんな不満を押し隠して日常を送ることになる。

 早朝の夢見心地の中で、いま書きあぐねている小説や芝居の場面を断片的に抜き出してブログにメモとして残すという考えが浮かぶ。それは作品からかけ離れたものとなるかもしれないが、それはそれで面白いと思われたのだが、所詮それは夢の中での思い付きに過ぎない。

 昼寝をしていて、夢の中で弟と会話をしている。今から20年以上も昔のことになる。スーザン・ソンタグがボスニア戦争の最中に現地で「ゴドーを待ちながら」を演出し、地元の俳優たちとともに上演したという話にインスパイアされ、山口県宇部市在住の劇作家広島友好氏が書いた戯曲「サラエボのゴドー」の上演許諾を得て、私が制作・演出・出演して高円寺の小さな劇場で上演したことがあるのだ。その時の私が演じているある場面について、「あのシーンだけで40分もかかるのは時間をかけ過ぎじゃないか。見ていてしんどい……」といったダメ出しを弟がして、それに対して私が何か言おうとした瞬間に目が覚めたのだ。その時、私が何を言おうとしたのか、まったく覚えていないのだが。
 
 YouTubeで「ゴドーを待ちながら」の様々な映像を見る。総じて日本人が日本語でこれを演じるのは難しいという印象を持つ。それにしても今は便利になったものだ。ベケット本人が演出した舞台上演(スタジオ上演?)の様子まで見られるというのは凄いことである。20年前には想像も出来なかったことだ。見た中で一番面白そうなのは、イアン・マッケランとパトリック・スチュアートが出演したブロードウェイの舞台の断片映像である。自然で弾けていて滑稽さと悲しみがほどよく混ざり合って、その世界にいつまでも浸っていたいと思わせる魅力に満ちている。

 聞きかじったところによると、ベケットは「ゴドーを待ちながら」をフランス語と英語の両方で書いたそうなのだが、英語版もフランス語からの単なる翻案ではなく、別ものとして書いたと思わせる仕掛けがあるようなのだ。それはどんなものなのだろう。目を閉じて想像してみるのだが、言葉の分からない私にはその想像すら的外れなものに思えてくる……。


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