seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

チェーホフの現在(いま)

2010-09-06 | 演劇
 8月27日、池袋の劇場「あうるすぽっと」で開催されている「チェーホフフェスティバル2010」の一環として上演されたM&Oplaysプロデュース「伝統の現在‘8」を観た。
 狂言の茂山正邦、宗彦、逸平の3人がチェーホフの「結婚申込」を脚色した「ぷろぽおず」と女狂言「鎌腹」を併せて上演したものだ。
 チェーホフの笑劇と狂言がこれほど相性よく、互換性があるということが新たな発見であり、驚きでもある。
 これには上方の茂山家の芸風も大きく寄与しているのだと思われる。その軽い味わいや滑稽味は彼らに特有のものであり、他の流派にはないものだからだ。

 9月1日、流山児★事務所の「櫻の園」を観た。
 演出:千葉哲也、ラネーフスカヤを安奈淳が演じている。
 正統派のチェーホフ・・・と言って差し支えないのだと思う。
 執事のエピホードフ、従僕のヤーシャをともに女優が演じ、小間使いドゥニャーシャとの「女同士」の恋の鞘当=三角関係を見せるところ、ダンスシーンの乱痴気騒ぎ、老僕フィールスの造形等々がこの集団ならではの変わったところと言えば言えるのだろうが、全体を通した印象は想像以上に原作に「忠実」な「櫻の園」という印象である。
 もっともエピホードフ、ヤーシャを女優に演じさせたことが成功だったかと問われれば首を傾げざるを得ないだろう。ダンスパーティのシーンも安っぽく見えてしまうのは否めない。(実のところ、幕間の休憩時間の観客同士の会話を耳にしてもあまり芳しい感想は聞こえなかった)

 だが、それ以上に鮮烈に記憶に残るいくつかのシーン、例えば帰還したラネーフスカヤ一家の登場場面、アーニャとペーチャの貧しくも愛らしいラブシーンなどを創り上げたことで私はこの舞台を良として受け入れたいと思う。
 さらに塩野谷正幸のフィールスはこの芝居全体のトーンを支える力を見せたし、安奈淳のラネーフスカヤも受けに徹する抑制された演技に好感が持てた。

 それにしても、想像以上にこの戯曲を実際に演じるのは難しい、厄介なことなのかも知れない。
 これまでの演劇史や文学史が観客=読者の期待値を否応なく必要以上に高めるものだから、その舞台には誰もが失望するということになりかねない。
 10年ほど前、俳優座劇場で某劇団の「櫻の園」を観たことがある。当時の自分の感覚として、「新劇」の老舗といわれるその劇団の実力がこんな程度のものなのかということに逆に驚いたものだった。
 なぜ彼らはこんなにも厭味ったらしい演技しかできないのだろう・・・。
 それに比べると、今回の舞台は、日本人の劇としてしっかり成立していたのではないか。
 何よりも「櫻の園」が、現代の日本の状況、危機的な経済状況を自覚しながらも内輪の権力争いに惑溺して脱け出せない政治家たち、無謀な戦いと知りながら戦争へと突き進んでいった日本人の精神構造といったものを的確に腑分けし観客の前に提示する劇であることを私たちは思い知らされる。
 このテキストが今この時代にこそ求められていることを感得させてくれるのだ。

 さて、「あうるすぽっと」は客席数301の「小ぶり」な中劇場であるが、この劇団の役者の半数がこの規模に対応できていないという感想を持ったのは私だけだろうか。これは通常、小さなスペースでの演技に馴れた小劇場系の役者の問題でもあり、一つの課題だろう。
 一方、多くの場合その過剰な演技がいやが上にも目立ってしまい、ともすれば全体の芝居のバランスを狂わせかねない流山児氏の存在が今回はぴたりとした場を得て光って見えたという皮肉な現象はどう解すればよいのだろう。
 不遜な言い方ではあるが、役者・流山児祥の久々の登場を大先輩のために喜びたいと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿