しばらくの間、短めのメモを書くことにしたい。
情けないことに病気の進行なのか、薬の副作用なのかは分からないのだが、パソコンを前に机に座っていること自体が辛くなってしまった。外出どころか、近所の散歩すら出来なくなる事態は想定していなかったので、本人としては笑ってしまいたくなるほどの痛恨事なのだが、そう泣き言ばかり言ってもいられない。
差し障りのない範囲で日記代わりにメモを書き散らしておくことにする。
言うなれば、私家版の《病牀六尺》か《仰臥漫録》を気取っているのである。
最近は新聞を読むこともさぼりがちで、溜め込んでいた記事の切り抜きを読む。
先週の夕刊の映画欄に河瀨直美監督の「東京オリンピック2020 SIDE:A」が全国200館で公開されながら、事故レベルと言ってよい不入りだという記事が載っている。
オリンピック本番は新型コロナウイルス新規感染者数が大きく増加するなか無観客で行われたが、この映画までほぼ無観客で上映されているというのは皮肉以外の何ものでもない、といった論調だ。
1964年の市川崑監督の「東京オリンピック」が記録映画の金字塔と評されたのとは大きな違いだが、この違いは単に時代の変化なのだろうか。
当時は各家庭にビデオなどなく、人々がオリンピック競技の感動をもう一度味わおうと思ったら映画を観るしかなかったのだが、この変化は大きいだろう。
今や多くの人が見たい場面を見たい時にインターネットやSNSを使って繰り返し見ることが出来る時代なのだ。加えて、競技後に多くのメダリストがテレビ局を掛け持ちして繰り返し《感動の場面》が放映されていた。
受容する側にとってもその《感動》はある意味ですでに飽和状態に達していたのかも知れないのだ。
さらに、前回オリンピックと今回では多くの人々の期待値にも大きな違いがあった。
コロナ禍のもとでの開催に反対する人も、賛同する人も、みな複雑な感情を持たざるを得ない状況だったのだ。
さらに、本映画の撮影現場をドキュメンタリーで追ったNHKの番組でインタビューの字幕捏造の案件や、河瀨監督自身のハラスメントと思しき事案など、ネガティブな報道が続いたということもあるだろう。
今年2月に始まったロシアのウクライナへの侵攻はじめ、その影響による物価の高騰や極端な円安問題等々は、人々の関心をすでに過ぎ去った去年の感動からは遠いものとしてしまったのではないだろうか。
映画そのものを私自身は未見なので、その評価云々に関して何も言う資格はないのだが、映画公開の環境としては甚だ課題山積だったとは言えるのだろう。
しかしながら、映画表現そのものについての議論が深まらないという現状は、どの立場の人にとっても不幸なことに違いないと感じるのである。
情けないことに病気の進行なのか、薬の副作用なのかは分からないのだが、パソコンを前に机に座っていること自体が辛くなってしまった。外出どころか、近所の散歩すら出来なくなる事態は想定していなかったので、本人としては笑ってしまいたくなるほどの痛恨事なのだが、そう泣き言ばかり言ってもいられない。
差し障りのない範囲で日記代わりにメモを書き散らしておくことにする。
言うなれば、私家版の《病牀六尺》か《仰臥漫録》を気取っているのである。
最近は新聞を読むこともさぼりがちで、溜め込んでいた記事の切り抜きを読む。
先週の夕刊の映画欄に河瀨直美監督の「東京オリンピック2020 SIDE:A」が全国200館で公開されながら、事故レベルと言ってよい不入りだという記事が載っている。
オリンピック本番は新型コロナウイルス新規感染者数が大きく増加するなか無観客で行われたが、この映画までほぼ無観客で上映されているというのは皮肉以外の何ものでもない、といった論調だ。
1964年の市川崑監督の「東京オリンピック」が記録映画の金字塔と評されたのとは大きな違いだが、この違いは単に時代の変化なのだろうか。
当時は各家庭にビデオなどなく、人々がオリンピック競技の感動をもう一度味わおうと思ったら映画を観るしかなかったのだが、この変化は大きいだろう。
今や多くの人が見たい場面を見たい時にインターネットやSNSを使って繰り返し見ることが出来る時代なのだ。加えて、競技後に多くのメダリストがテレビ局を掛け持ちして繰り返し《感動の場面》が放映されていた。
受容する側にとってもその《感動》はある意味ですでに飽和状態に達していたのかも知れないのだ。
さらに、前回オリンピックと今回では多くの人々の期待値にも大きな違いがあった。
コロナ禍のもとでの開催に反対する人も、賛同する人も、みな複雑な感情を持たざるを得ない状況だったのだ。
さらに、本映画の撮影現場をドキュメンタリーで追ったNHKの番組でインタビューの字幕捏造の案件や、河瀨監督自身のハラスメントと思しき事案など、ネガティブな報道が続いたということもあるだろう。
今年2月に始まったロシアのウクライナへの侵攻はじめ、その影響による物価の高騰や極端な円安問題等々は、人々の関心をすでに過ぎ去った去年の感動からは遠いものとしてしまったのではないだろうか。
映画そのものを私自身は未見なので、その評価云々に関して何も言う資格はないのだが、映画公開の環境としては甚だ課題山積だったとは言えるのだろう。
しかしながら、映画表現そのものについての議論が深まらないという現状は、どの立場の人にとっても不幸なことに違いないと感じるのである。
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