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72回目の原爆の日を迎えた長崎・「核兵器は絶対悪」

2017-08-09 12:01:30 | 日記

 午前11時2分。長崎に向かって、原爆被災者のご冥福を祈りながら1分間の黙とうを捧げた。 

 第2次世界大戦も末期、72年前の8月9日11時2分、長崎に1発の原爆が投下された。この1つの兵器で、長崎市の人口24万人(推定)のうち死者7万4909人、負傷者7万4909人、建物は約36%が全焼または全半壊した。今年もまた、原爆死没者名簿に3,551人の名前が書き加えられた。

 米軍の当日の原爆投下作戦は第一目標は小倉市(現北九州市)、第二目標は長崎市と決められていた。朝早くテニアン島から原爆を積んだB29が飛び立ち、午前9時44分に第一目標の小倉造兵廠上空に到達したが、目標は、その前日およそ7km離れた八幡市(現北九州市)空襲の残煙とかすみに覆い隠されていた。

 原爆は目視による投下が厳命されている。空襲の残煙とかすみに覆い隠された目標を見た爆撃手が目視による投下確認に失敗。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返したが失敗、再度3度目となる爆撃航程を行ったがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。

 3回もの爆撃失敗で残燃料に余裕がなくなり、予備燃料に切り替えたものの、その後、天候が悪化。日本軍の反撃体制も予測されたので目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。(被爆後の新聞記事から)

 小倉にかわり長崎の悲劇はこの時に始まった。

 当時、私の家は目標となった小倉造兵廠から約3㌔離れた戸畑市中原にあった。国民学校4年生。毎朝のように空襲警報のサイレンが鳴る。10分か20分たつと敵機襲来のサイレンがなり、全員が防空壕に避難しなければならない。その日の朝は暑かった。空は真っ青。いつもと違い空襲警報が発令されたが、敵機襲来のサイレンはいつまでたっても鳴らなかった。近くの公園では蝉の声が賑やか。待ちきれなくなり蝉を取りに近くの公園に出かけた。夢中で蝉を取っていると、急にあたりが薄暗くなった。東の空を見ると沢山の飛行機が飛んでくる。100機だろうか、それ以上だろうか。グラマン、カーチス、ロッキードP51などアメリカの艦載機群だ。その飛行機はなにか白いものを流している。すだれのように。あとで知ったが電波妨害のための白いアルミ箔だった。

 時間がたってアルミ箔が地上に近ずいた。10歳だったわたしは、喜んでそれを拾いにいった。その時、鋭い飛行機音を耳にした。右横、上空低くにグラマンの姿が見えた。操縦士の顔も見える。危険を感じとっさに地面に這いつくばった。機銃の音がした。バシッ、バシッと地面が跳ねる。約10メートルは離れていただろうか。機銃の跡が2~3メートルの間隔で残っていた。たちまち恐怖に襲われた。人を見れば老若問わず機銃を掃射する。それが戦争なのだと、幼い子供にもその恐ろしさを実感させた。

 長崎の原爆では、大勢の死者が出たことを後で聞いた。原爆が第1目標の小倉であったとしたら、多分わたしも被災していたことだろう。その日のことを72年過ぎた今も、昨日のことのように思い出す。

 その日長崎で平和記念式典が開かれた。田上長崎市長は「今年7月の核兵器禁止条約の採択」を歓迎する一方、日本政府に対し「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と強く批判した。

 国民の大多数の方がこの思いを共有できるのではあるまいか。