大正末期に創刊した北海道大学の学生新聞「北海道大学新聞」が、85年の歴史に幕を閉じた。
学生が独自に取材、編集する国立大の新聞としては東大、京大に次ぐ伝統があるとされるが、部員不足に泣いた。
最終号はたった1人残った部員の手で発行された。
創刊号は1926年5月14日、「北海道帝国大学新聞」として発行された。
「本学創基の恩人クラーク先生の胸像成る」の見出しで、クラーク博士が初代教頭として赴任した札幌農学校創基50年記念式と、クラーク博士像の除幕式が当日あることを報じている。
太平洋戦争のころは、「今ぞ示さん皇国の力」などの見出しが躍り、戦時中も発行は続いた。
戦後は1~3カ月に1回発行し、総長インタビューや大学改革の検証、スポーツ部の成績などを取り上げた。
詳しい資料は残っていないが、多い時には発行部数は約8千部。
部員も2000年ごろは約20人いたが、その後は減り、07年から発行が途絶えた。
そこに昨年春、神奈川県の湘南高校時代に新聞部長の経験がある北島知明さん(22)=3年=が入部。
だが、ほかの部員はそれと同時に卒業し、北島さんはたった1人の部員になった。
今年4月の復刊。A3判裏表の紙面に、北大生の英語力や震災の影響などの記事を書いた。
新人募集のお知らせも掲載したが、部員は増えなかった。12月からは北島さんも就職活動に本腰を入れなければならない。
発行継続は困難と判断し、OB会と相談して発行母体「北海道大学新聞会」の廃会を決めた。
最終号は復刊後4号目の1032号。11月に約3千部発行した。
いつもと違う16ページの冊子とし、就職活動や職業への意識などを識者に聞いたインタビューを掲載した。
北島さんは「後継者がいなかったのは本当に残念。85年続いた新聞を終わらせるのはつらい決断でした。
別な形でもいいので誰かが再びやってほしい」と話している。
サハリンマ談
北海道の大学から輩出したマスコミ人間は、先輩として多数存在している。
彼らも、彼女たち、も「北大新聞」を若き頃は、認識していた事と思える。
・・・・。
学生が独自に取材、編集する国立大の新聞としては東大、京大に次ぐ伝統があるとされるが、部員不足に泣いた。
最終号はたった1人残った部員の手で発行された。
創刊号は1926年5月14日、「北海道帝国大学新聞」として発行された。
「本学創基の恩人クラーク先生の胸像成る」の見出しで、クラーク博士が初代教頭として赴任した札幌農学校創基50年記念式と、クラーク博士像の除幕式が当日あることを報じている。
太平洋戦争のころは、「今ぞ示さん皇国の力」などの見出しが躍り、戦時中も発行は続いた。
戦後は1~3カ月に1回発行し、総長インタビューや大学改革の検証、スポーツ部の成績などを取り上げた。
詳しい資料は残っていないが、多い時には発行部数は約8千部。
部員も2000年ごろは約20人いたが、その後は減り、07年から発行が途絶えた。
そこに昨年春、神奈川県の湘南高校時代に新聞部長の経験がある北島知明さん(22)=3年=が入部。
だが、ほかの部員はそれと同時に卒業し、北島さんはたった1人の部員になった。
今年4月の復刊。A3判裏表の紙面に、北大生の英語力や震災の影響などの記事を書いた。
新人募集のお知らせも掲載したが、部員は増えなかった。12月からは北島さんも就職活動に本腰を入れなければならない。
発行継続は困難と判断し、OB会と相談して発行母体「北海道大学新聞会」の廃会を決めた。
最終号は復刊後4号目の1032号。11月に約3千部発行した。
いつもと違う16ページの冊子とし、就職活動や職業への意識などを識者に聞いたインタビューを掲載した。
北島さんは「後継者がいなかったのは本当に残念。85年続いた新聞を終わらせるのはつらい決断でした。
別な形でもいいので誰かが再びやってほしい」と話している。
サハリンマ談
北海道の大学から輩出したマスコミ人間は、先輩として多数存在している。
彼らも、彼女たち、も「北大新聞」を若き頃は、認識していた事と思える。
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