多重人格者を扱った、玄侑宗久の『阿修羅』という小説を読んでいた。
ヒトは内面に他者を映し出し、他者を模倣することで言葉も物事への
接し方も習得していく。人格とはそれらの個人的な表出を送り出す源の
鋳型のようなものであろうと思う。
また人格とは、個人の歴史的な産物であり、経験を通して重畳的に織ら
れて発展する、終わりのない形成物である。
人格とは、おそらく永遠に未完成でしかない代物であろう。
ところで、80年代頃から、若者の人格がキャラ化し始めたような気がす
る。この「キャラ」とは、その淵源は主に、マンガやアニメの登場人物
或いはアイドル・タレント等への同一視、同一化願望に発したものに思
える。
「キャラ」とは、人格の表面に貼り付けられた、魅惑的な一枚の絵のよ
うな外来物である。
それは、あるイメージで充足が先取られた完成品であり、
キャラが引き受けられる、ある幅に対応してしか現実関係も存在してい
ない。それは、架空の仮面の表情であり、架空の身体像の表出である。
我々は、人格という一本の樹木を、心の裡に育て成長させて大人になっ
てきたはずだ。ところが、その内面の成長を放棄して、見かけだけの魅
力から「キャラ」を内面化・外見化させて自己を演出し
「自分」をひとまず「完成」させてしまおうとする文化傾向が、
若い世代に程度の差はあれ、一般化しているように、私には思える。
「現実」という多様に厚みのある、また予測も不可能なものに対して、
誰であれ「キャラ」の幅のみで、対応仕切れるはずもない。
だが、そんな現実を前に、元来薄っぺらな「キャラ」で向き合い、
渡り合おうとすれば、対応不能、当事者能力無しに陥らざるを得ない
だろう。
だがしかし、彼等(特に若い女性たち?)は、「キャラ」にしがみつき
「キャラ」を手放そうとしない。
すると、どうなるか?
キャラの演出では通用しない現実に鷲掴みにされては、心が解離し
て、別の人格(キャラ)が新たに生じるのであろうか。
心=キャラという、底の浅い容器からはみ出す現実の事態に対しては、
別個のキャラが援用されることにもなろうか。
これらのキャラは借り物ながら、その時々に私という主人公を乗っ
取る程の現実的機能を発揮し、私が制御し得ない程に暴走もする。
パソコンに喩えれば、MS・DOSの上にWINDOUWSがあり、その上
に各種ソフトがあるなら、各種ソフトの画面上の勝手な働きを基盤
ソフトが制御出来ないような状態か、あるいは、OSとは無関係に
作動して、ディスプレーに映し出され続けるイメージ画像のような
存在である。
もちろん、解離性障害は幼少期の度し難いトラウマ体験に起因して
いるだろうし、多重人格の場合も、別人格を確保した後に、主人格
の危機対応用の人格として発展形成されつつ、心裡に温存され続け
たものであり、上述の「キャラ」の援用という文化現象ではなく、
精神病理であると思われる。
人格という、成長しゆく心の樹木を育てようとせず、予め完成され
た「キャラ」を内面化し、代自化して、自分に出来合いの存在感を
与えて衣服のように「キャラ」を纏うだけの存在表出と生き方が、
解離や多重人格という病理現象の背景に、微妙に絡んでいるような
気もする。
また、キャラは人格の成長を止めてしまうのでは、とも思われる。
人格の成長とは、辛い経験でも心が受け止めて、現実を吟味し知恵
を深めていくようなことの繰り返しであろう。
そのような反復が心に刻まれない、個人史の年齢的な展開を拒否し
たかのような「キャラ」という存在体に、
自身を委ね安住することに、生き易さを感じる時代とセンスが、
21世紀初頭の現代なのかしれない。
「キャラ」の仮面を被ることで、周囲に自分の受け入れを訴えて、
「キャラ」の特徴と、それ故の現実対応能力の限界と、限定的な期
待役割を生きることに甘んじることと、
運命として授かった人格の幹を太くしつつ、枝振りを広げて一本の
自分の木として人格が成長すること。
もしかしたら、この両者が、矛盾せずに同居するような、人格の新
たな機能と側面が既に現出作動しているのかもしれない。
ヒトは内面に他者を映し出し、他者を模倣することで言葉も物事への
接し方も習得していく。人格とはそれらの個人的な表出を送り出す源の
鋳型のようなものであろうと思う。
また人格とは、個人の歴史的な産物であり、経験を通して重畳的に織ら
れて発展する、終わりのない形成物である。
人格とは、おそらく永遠に未完成でしかない代物であろう。
ところで、80年代頃から、若者の人格がキャラ化し始めたような気がす
る。この「キャラ」とは、その淵源は主に、マンガやアニメの登場人物
或いはアイドル・タレント等への同一視、同一化願望に発したものに思
える。
「キャラ」とは、人格の表面に貼り付けられた、魅惑的な一枚の絵のよ
うな外来物である。
それは、あるイメージで充足が先取られた完成品であり、
キャラが引き受けられる、ある幅に対応してしか現実関係も存在してい
ない。それは、架空の仮面の表情であり、架空の身体像の表出である。
我々は、人格という一本の樹木を、心の裡に育て成長させて大人になっ
てきたはずだ。ところが、その内面の成長を放棄して、見かけだけの魅
力から「キャラ」を内面化・外見化させて自己を演出し
「自分」をひとまず「完成」させてしまおうとする文化傾向が、
若い世代に程度の差はあれ、一般化しているように、私には思える。
「現実」という多様に厚みのある、また予測も不可能なものに対して、
誰であれ「キャラ」の幅のみで、対応仕切れるはずもない。
だが、そんな現実を前に、元来薄っぺらな「キャラ」で向き合い、
渡り合おうとすれば、対応不能、当事者能力無しに陥らざるを得ない
だろう。
だがしかし、彼等(特に若い女性たち?)は、「キャラ」にしがみつき
「キャラ」を手放そうとしない。
すると、どうなるか?
キャラの演出では通用しない現実に鷲掴みにされては、心が解離し
て、別の人格(キャラ)が新たに生じるのであろうか。
心=キャラという、底の浅い容器からはみ出す現実の事態に対しては、
別個のキャラが援用されることにもなろうか。
これらのキャラは借り物ながら、その時々に私という主人公を乗っ
取る程の現実的機能を発揮し、私が制御し得ない程に暴走もする。
パソコンに喩えれば、MS・DOSの上にWINDOUWSがあり、その上
に各種ソフトがあるなら、各種ソフトの画面上の勝手な働きを基盤
ソフトが制御出来ないような状態か、あるいは、OSとは無関係に
作動して、ディスプレーに映し出され続けるイメージ画像のような
存在である。
もちろん、解離性障害は幼少期の度し難いトラウマ体験に起因して
いるだろうし、多重人格の場合も、別人格を確保した後に、主人格
の危機対応用の人格として発展形成されつつ、心裡に温存され続け
たものであり、上述の「キャラ」の援用という文化現象ではなく、
精神病理であると思われる。
人格という、成長しゆく心の樹木を育てようとせず、予め完成され
た「キャラ」を内面化し、代自化して、自分に出来合いの存在感を
与えて衣服のように「キャラ」を纏うだけの存在表出と生き方が、
解離や多重人格という病理現象の背景に、微妙に絡んでいるような
気もする。
また、キャラは人格の成長を止めてしまうのでは、とも思われる。
人格の成長とは、辛い経験でも心が受け止めて、現実を吟味し知恵
を深めていくようなことの繰り返しであろう。
そのような反復が心に刻まれない、個人史の年齢的な展開を拒否し
たかのような「キャラ」という存在体に、
自身を委ね安住することに、生き易さを感じる時代とセンスが、
21世紀初頭の現代なのかしれない。
「キャラ」の仮面を被ることで、周囲に自分の受け入れを訴えて、
「キャラ」の特徴と、それ故の現実対応能力の限界と、限定的な期
待役割を生きることに甘んじることと、
運命として授かった人格の幹を太くしつつ、枝振りを広げて一本の
自分の木として人格が成長すること。
もしかしたら、この両者が、矛盾せずに同居するような、人格の新
たな機能と側面が既に現出作動しているのかもしれない。