
工場の整理清掃作業が続いている。
ジィジはグリーソン・スコアで「7」の前立腺ガンだというのに、
未だに「オレは、本当にガンなのか? 医者がイイカゲンなんじゃない
のか?」などと言ってる。そのうち、判らせないといけない。
工場を掃除すれば、産廃用の廃棄物が色々と出る。
鉄クズはキロ当たり10円~20円で売れるのだが、
事業ゴミとしてシールを貼って出さないと済まないモノも多い。
東京23区では、区毎に発行・販売する「事業系一般廃棄物処理券」とい
うシールを買って、ゴミ袋に貼ってゴミ収集日に出すのであるが、
私の区では、
特大(70ℓ) 2,135円(5枚セット)
大(45ℓ) 2,740円(10枚セット)
中(20ℓ) 1,200円(10枚セット)
小(10ℓ) 610円(10枚セット)
ということになっている。
このあいだ、近所のコンビニに事業ゴミ処理券を買いに行った処、
粗大ゴミの券をカウンターに出して、コレですか? というので、
事業ゴミの「大」だといったら、又、粗大ゴミの金額の高い券を
差し出して訊くので、何だ、この店員は?と思ったら「見習い中」
だかの腕章をしていた。
すぐに一般店員(といってバイトだろうけど。)が掛け付けてきて、
カウンター下の引き出しから、事業ゴミ券の「特大」「中」「小」
と出して並べてどれですか? と訊く。
私はうんざりして、事業ゴミ券の「大」が欲しいんですけど‥、
そう言っても、このヒトは「大」という区分ではなく、
リットルで分かれてますので、と主張して譲らない。
券にはリットル表示の隣の欄に、「特大」とあるでしょ、
ここが「大」と表示されている券のことですよ、と説明したら、
詫びる言葉もなく、引出しの奥の方にあったようで、探し出してきた。
店員のヒトは、これ何枚要るんですか?と切売りするつもりらしかった
が、一束セットで下さいというと喜んでいた。この券はセット売りしか
しないはずだけどなぁ?(粗大ゴミ券は切売り可)
そんな調子でゴミ券を買って店を出たが、
「特大」「中」「小」と券の束を並べて見せて、どうして「大」もある
はずだとピンと来ないのだろうか?
多分彼らは、自分の頭では何も考えずに、客に応対しているからである。
バカなのではなく、マニュアルに従うことが優先されて、自然な思考が
停止しているのであろう。(でも多分、半分位はバカが混じっている。)
以前、新聞だかで何処かの大学教授が、最近の学生は「答え」ばかりを
欲しがり、それを知識にしておしまいであって、自分の頭で考えようと
しないと嘆いていた覚えがある。本当にその通りである。
物事の知識や仕方を覚えること事体は良いが、どうしてそうなのか?と
問う姿勢にこそ学問があるはずである。
「教わること」が情報を得る事になってしまっているのだ。
「学ぶ」ことも知識の量を増やすこと、何らかの要領の良い攻略法を得
ること、そんな物理的、打算的な学習は中学生で止めるべきである。
それでは偏差値が上がらない、
「良い大学」に入れない、
入社試験にも落ちてしまう、と言われれば、
そんな競い合いが、私にはくだらないとしか思えない。
規格された商品化だけでなく、ニンゲンまで規格化の圧力が強くなって
いる社会なのかなと思うと、馬鹿げた、生きにくい世の中だなと思う。
若者たちのファッションや感性は各々個性的に見えるのに、
中身の考えの部分はどうして没個性なのだろうか。面倒臭いからか‥。
ルネ・デカルトは有名な「われ思う、故にわれあり」と述べた。
彼は、中世的な神学的なる、神中心の世界観から「われ思う」において
一歩その外側に踏み出したのである。
今日的な、コンビニ的、ファーストフード的なるマニュアル教学的な
世界と人生から、そんなものに縛られている存在から、
「われ考える」を以って踏み外せ、と言いたい。
ジィジはグリーソン・スコアで「7」の前立腺ガンだというのに、
未だに「オレは、本当にガンなのか? 医者がイイカゲンなんじゃない
のか?」などと言ってる。そのうち、判らせないといけない。
工場を掃除すれば、産廃用の廃棄物が色々と出る。
鉄クズはキロ当たり10円~20円で売れるのだが、
事業ゴミとしてシールを貼って出さないと済まないモノも多い。
東京23区では、区毎に発行・販売する「事業系一般廃棄物処理券」とい
うシールを買って、ゴミ袋に貼ってゴミ収集日に出すのであるが、
私の区では、
特大(70ℓ) 2,135円(5枚セット)
大(45ℓ) 2,740円(10枚セット)
中(20ℓ) 1,200円(10枚セット)
小(10ℓ) 610円(10枚セット)
ということになっている。
このあいだ、近所のコンビニに事業ゴミ処理券を買いに行った処、
粗大ゴミの券をカウンターに出して、コレですか? というので、
事業ゴミの「大」だといったら、又、粗大ゴミの金額の高い券を
差し出して訊くので、何だ、この店員は?と思ったら「見習い中」
だかの腕章をしていた。
すぐに一般店員(といってバイトだろうけど。)が掛け付けてきて、
カウンター下の引き出しから、事業ゴミ券の「特大」「中」「小」
と出して並べてどれですか? と訊く。
私はうんざりして、事業ゴミ券の「大」が欲しいんですけど‥、
そう言っても、このヒトは「大」という区分ではなく、
リットルで分かれてますので、と主張して譲らない。
券にはリットル表示の隣の欄に、「特大」とあるでしょ、
ここが「大」と表示されている券のことですよ、と説明したら、
詫びる言葉もなく、引出しの奥の方にあったようで、探し出してきた。
店員のヒトは、これ何枚要るんですか?と切売りするつもりらしかった
が、一束セットで下さいというと喜んでいた。この券はセット売りしか
しないはずだけどなぁ?(粗大ゴミ券は切売り可)
そんな調子でゴミ券を買って店を出たが、
「特大」「中」「小」と券の束を並べて見せて、どうして「大」もある
はずだとピンと来ないのだろうか?
多分彼らは、自分の頭では何も考えずに、客に応対しているからである。
バカなのではなく、マニュアルに従うことが優先されて、自然な思考が
停止しているのであろう。(でも多分、半分位はバカが混じっている。)
以前、新聞だかで何処かの大学教授が、最近の学生は「答え」ばかりを
欲しがり、それを知識にしておしまいであって、自分の頭で考えようと
しないと嘆いていた覚えがある。本当にその通りである。
物事の知識や仕方を覚えること事体は良いが、どうしてそうなのか?と
問う姿勢にこそ学問があるはずである。
「教わること」が情報を得る事になってしまっているのだ。
「学ぶ」ことも知識の量を増やすこと、何らかの要領の良い攻略法を得
ること、そんな物理的、打算的な学習は中学生で止めるべきである。
それでは偏差値が上がらない、
「良い大学」に入れない、
入社試験にも落ちてしまう、と言われれば、
そんな競い合いが、私にはくだらないとしか思えない。
規格された商品化だけでなく、ニンゲンまで規格化の圧力が強くなって
いる社会なのかなと思うと、馬鹿げた、生きにくい世の中だなと思う。
若者たちのファッションや感性は各々個性的に見えるのに、
中身の考えの部分はどうして没個性なのだろうか。面倒臭いからか‥。
ルネ・デカルトは有名な「われ思う、故にわれあり」と述べた。
彼は、中世的な神学的なる、神中心の世界観から「われ思う」において
一歩その外側に踏み出したのである。
今日的な、コンビニ的、ファーストフード的なるマニュアル教学的な
世界と人生から、そんなものに縛られている存在から、
「われ考える」を以って踏み外せ、と言いたい。