
前回、経緯を記した通り、区の博物施設からベルト掛け旋盤の撮影に来
るので、油垢で黒ずんだ旋盤を清掃をしていた。
当工場には旋盤が6台あるのだが、最長(5m)の旋盤を掃除していたら、
主軸部の蓋の上に画像のような銀プレートを発見した。
この旋盤は、おそらく昭和40年代頃、近所の中古機械商から購入した
出物で、心棒の回転数/分の表が英語表記なので、「アメリカ製」と
いう触れ込みで買い入れたようである。
銀のプレートの文字は、ドイツ語らしく、
「BERNHARD ESCHER A.G. CHEMNITZ」とあり、
CBEのアルファベットを重ねたロゴが採用されている。
調べてみると、東ドイツにケムニッツ市という工業都市があり、ベルン
ハルド・エッシャー株式会社の意味のようである。さらに覚束ないドイ
ツ語で検索していくと、同社の株券の画像と沿革が見つかった。
それによると、このエッシャー社は1874(明治7)年の創業であり、
第二次大戦後は、東ドイツに属し、同社の株券の権利は1960年以降
は失効したということらしい。共産圏に組み込まれ、同社は数年の国家
管理下におかれた後、私企業としては消滅したかのようである。
ヨーロッパ先進国からの工業機械・工具の輸入に携わっていた友人にも
尋ねてみたが、隔年で開催される工業機械見本市の企業名検索にも存在
しない企業であり、HPさえないので、廃業か合併等で消滅した会社で
あろうと教えて貰った。
同社が既に無いとして、さて、この旋盤はいつ頃製造されて、東京の下
町まで流れ着いたものなのだろうか?
まず、戦後に製造輸出されたことはあり得ないと思われるので、ナチス
の時代かと考えると、三国同盟関係にあろうとも、ナチが日本の工業生
産性を高め軍事力を強化することに好意的であったはずもなく、中国や
アジアに領土を拡張する日本には強い警戒心を持っていたはずである。
当時の日独間貿易の事情には不案内だが、ナチ時代の輸入生産財とも考
えにくい。そうなると第一次大戦前後か1920年代のワイマール時代
か、いづれにせよ、日本の大正期に輸入された工作機械ではなかろうか
というのが、素人ながら私の推測である。
21世紀の下町の町工場に、第二次大戦前にドイツで製造された旋盤が現
役で廻っているのである。この旋盤は機械いじりの好きなジィジが修理
・改造して使用に耐えているものであるが、零細町工場の爺さんがこん
な歴史遺品のような機械をそうとも知らずに、使ってきたという事実に
妙に愉快な思いがしている。
1918年にはドイツで帝政を覆す「ドイツ革命」が起こる。ローザ・
ルクセンブルクやリープクネヒトが生きていた頃である。両者はその
翌年に没したはずではあるが、そんな時代の、ドイツの工業都市の鉄で
そんな時代の労働者たちが汗を流して製造した旋盤なのである。
ジィジは、そんなこと何も知らないが、どうもお気に入りの旋盤に見え
る。今、改めてこの旋盤の銀プレートや、旋盤のベツド(旋盤の盤面レ
ールの部分)の輝きに、どうしてか頭が下がる思いがしている。
誰に対しての、何の念なのか。
ドイツの工作機械・労働者か、旋盤を維持し続けた自分の父親への思い
なのか。やはりその両方に、畏敬と感謝の念を抱いている。
ジィジがカネで中古旋盤を買ったのではなく、優秀なるドイツ旋盤の方
が機械工一徹の我が父親を見込んで、当工場に身をゆだねに来てくれた
ようにさえ想えるのである。ジィジは80歳、最近ガンを宣告されている。
ケムニッツの旋盤が逝き、それを見送って後、本人も逝くのであろうか。
ジィジも私も、カネには縁のない身である。
「鉄」ばかりに縁付いている。
鉄はカネを失うと書くだろ、だからオレには、いつまでたっても、
カネがねぇんだ、と呑気に笑っている爺さんと、私も同類なのかな。
るので、油垢で黒ずんだ旋盤を清掃をしていた。
当工場には旋盤が6台あるのだが、最長(5m)の旋盤を掃除していたら、
主軸部の蓋の上に画像のような銀プレートを発見した。
この旋盤は、おそらく昭和40年代頃、近所の中古機械商から購入した
出物で、心棒の回転数/分の表が英語表記なので、「アメリカ製」と
いう触れ込みで買い入れたようである。
銀のプレートの文字は、ドイツ語らしく、
「BERNHARD ESCHER A.G. CHEMNITZ」とあり、
CBEのアルファベットを重ねたロゴが採用されている。
調べてみると、東ドイツにケムニッツ市という工業都市があり、ベルン
ハルド・エッシャー株式会社の意味のようである。さらに覚束ないドイ
ツ語で検索していくと、同社の株券の画像と沿革が見つかった。
それによると、このエッシャー社は1874(明治7)年の創業であり、
第二次大戦後は、東ドイツに属し、同社の株券の権利は1960年以降
は失効したということらしい。共産圏に組み込まれ、同社は数年の国家
管理下におかれた後、私企業としては消滅したかのようである。
ヨーロッパ先進国からの工業機械・工具の輸入に携わっていた友人にも
尋ねてみたが、隔年で開催される工業機械見本市の企業名検索にも存在
しない企業であり、HPさえないので、廃業か合併等で消滅した会社で
あろうと教えて貰った。
同社が既に無いとして、さて、この旋盤はいつ頃製造されて、東京の下
町まで流れ着いたものなのだろうか?
まず、戦後に製造輸出されたことはあり得ないと思われるので、ナチス
の時代かと考えると、三国同盟関係にあろうとも、ナチが日本の工業生
産性を高め軍事力を強化することに好意的であったはずもなく、中国や
アジアに領土を拡張する日本には強い警戒心を持っていたはずである。
当時の日独間貿易の事情には不案内だが、ナチ時代の輸入生産財とも考
えにくい。そうなると第一次大戦前後か1920年代のワイマール時代
か、いづれにせよ、日本の大正期に輸入された工作機械ではなかろうか
というのが、素人ながら私の推測である。
21世紀の下町の町工場に、第二次大戦前にドイツで製造された旋盤が現
役で廻っているのである。この旋盤は機械いじりの好きなジィジが修理
・改造して使用に耐えているものであるが、零細町工場の爺さんがこん
な歴史遺品のような機械をそうとも知らずに、使ってきたという事実に
妙に愉快な思いがしている。
1918年にはドイツで帝政を覆す「ドイツ革命」が起こる。ローザ・
ルクセンブルクやリープクネヒトが生きていた頃である。両者はその
翌年に没したはずではあるが、そんな時代の、ドイツの工業都市の鉄で
そんな時代の労働者たちが汗を流して製造した旋盤なのである。
ジィジは、そんなこと何も知らないが、どうもお気に入りの旋盤に見え
る。今、改めてこの旋盤の銀プレートや、旋盤のベツド(旋盤の盤面レ
ールの部分)の輝きに、どうしてか頭が下がる思いがしている。
誰に対しての、何の念なのか。
ドイツの工作機械・労働者か、旋盤を維持し続けた自分の父親への思い
なのか。やはりその両方に、畏敬と感謝の念を抱いている。
ジィジがカネで中古旋盤を買ったのではなく、優秀なるドイツ旋盤の方
が機械工一徹の我が父親を見込んで、当工場に身をゆだねに来てくれた
ようにさえ想えるのである。ジィジは80歳、最近ガンを宣告されている。
ケムニッツの旋盤が逝き、それを見送って後、本人も逝くのであろうか。
ジィジも私も、カネには縁のない身である。
「鉄」ばかりに縁付いている。
鉄はカネを失うと書くだろ、だからオレには、いつまでたっても、
カネがねぇんだ、と呑気に笑っている爺さんと、私も同類なのかな。
コメントをありがとうございました。
これだけの工作機械を「趣味」でご使用とは、
恐れ入ります。
私の方では、ブログ記事でもお知らせしたように、工場の設備・機械は一切廃棄しています。
平ベルト掛けの弓鋸盤は、元々ありませんでした。
私が子供の頃、工場全体がベルト掛けで廻っていましたので、動力を入れると、我が家まで振動で揺れてきて、工場には独特の音とリズムが響いていたものです。その響きが生まれ故郷のように、懐かしい思い出です。(草々)
返信をどうもありがとうございました。
我が家の、旋盤の寄贈も検討しましたが、
面倒も有り、鉄屑扱いで売却しました。
リーマン・ショック以後、私の近所の、東京下町では、町工場の閉鎖(廃業)や移転が目立ちます。古い産業機械を残そうという機運もなく、行政にも諮りましたが、予算も保管場所もないようです。
工業系職人の歴史の一端を証言する、工作機械等の産業遺品がクズにしか扱われないで、打ち捨てられていく姿には、惜しいやら少し悲しいものがありますね。
当ブログでは、私の日常や関心事を気ままに
綴っております。
どうぞ、気の向くままに、お付き合い下さい。(ユメノ・ロンド拝)