9月5日、私が単身、介護をしてきた母が、唐突に他界しました。
前日4日の昼には、訪問看護師さんが来て入浴をした後、台所のイス
に腰かけてオレンジ・ジュースをコップに半分程飲み、かすれた小声
で「あ_、おいしい~」と言ったのが、生前聞いた最期の言葉と姿で
した。
ジュースを飲み終えた母を、私はベッドに連れて行き寝かせてから、
台所でお昼のサンドイッチを食べ、2階に上がって部屋で録画番組を
観ていましたが、ウトウト寝てしまい、目が覚めたら4時過ぎでした。
母の様子を覗きに降りると、母はベッドから下り膝を畳について、上
体をベッドに預け、顔全体を掛布団にのめり込ませている状態でした。
今までにもそんな姿は何度か見ていたので、ベッドに戻そうと身体を
抱き起すのですが、体がぐにゃぐにぁして変な具合です。顔色も薄暗
く口をあけたまま意識もなさそう。更には、心臓も動いてない?よう
でした。うつ伏せ寝で窒息したのかと思いつつ、少し心臓マッサージ
の真似事をしましたが、全く反応なしです。
えっ! えーっ? これ死んでるの? すぐ救急へ電話した。救急隊
が来てあたふた人工呼吸やら電気ショックを行ってましたが、心臓は
全く動かないままでした。
救:「どうしますか?」
私:「どう? って、もう心臓動いてないんでしょ。どうしたらって…」
救:「では、お見送りにしますか? それとも救命へ行きますか?」
私:「え、お見送り? まだ見込みがあるなら、救命へお願いします。」
ということで、地元の大学病院の救急救命(ICU)へ搬送され、様々
救命の処置が執られると、心臓が2回動いては止まりしたのが、3回
目で、これでダメなら延命打ち切りという処で、鼓動が戻りました。
母の心臓は病院に到着する前に、既に1時間以上は停止していたと思
われます。戻るとは言っても、脈拍は100以上と速く、血圧は正常
域になりましたが、眼光反射には無反応、時折顔面をピクつかせるも
のの意識はないままです。他のきょうだい達も駆けつけ、その日私は
夜の11時までICUの病室で様子見を続け、一旦帰宅しました。
一体、このような状態の人間って、回復するのだろうか、良くても植
物状態なのか等々、不安や心配や悲哀やら様々な感情が渦巻いて眠れ
ないまま、午前4時頃枕元の電話が鳴りました。出ると、やはり病院
からでした。心臓が止まりましたという知らせでした。すぐ自転車で
病院に向かい、再度心臓が止まった母と対面しました。自宅での発見
時より顔色が良くなっていましたが、これが最期の死に別れでした。
ご遺体を清拭して貰い、病院では死因を確認したいので、脳のCTス
キャンを撮って、その結果を医師が説明してくれました。脳にくも膜
下出血の跡があり、それで意識を喪失し心停止まで至ったのだろうと
いう話でした。あのとき母は、就眠中に頭がとても痛くなり、耐え切
れずベッドから下りたのでしょうか。私がもう少し早くに、気づいて
あげられたらと、少し後悔と心が痛む思いでした。
母は享年86歳と9か月。今月は丁度2年前に亡くなった父の三回忌
の予定でした。夫婦ともに9月に86歳で亡くなったことになります。
葬儀は、子供きょうだい等近親者のみで、告別式だけの一日葬を明後
日執り行います。
二年前亡くなった父が呼びにでも来たのでしょうか。最期はたいして
苦しまずに、母はあの世に行けたと思います。父も母も、昭和一桁の
戦中派ですが、母は子供時代から日本舞踊が趣味で、踊りを踊ってい
るときが一番楽しかったと言ってました。
母にとっては自分の人生って、どうだったかは知りませんが、勿論、
厭なこともたくさんあったのでしょうが、わりと幸運で幸福な方のヒ
トの人生だったような気が、私にはするのです。(合掌)
前日4日の昼には、訪問看護師さんが来て入浴をした後、台所のイス
に腰かけてオレンジ・ジュースをコップに半分程飲み、かすれた小声
で「あ_、おいしい~」と言ったのが、生前聞いた最期の言葉と姿で
した。
ジュースを飲み終えた母を、私はベッドに連れて行き寝かせてから、
台所でお昼のサンドイッチを食べ、2階に上がって部屋で録画番組を
観ていましたが、ウトウト寝てしまい、目が覚めたら4時過ぎでした。
母の様子を覗きに降りると、母はベッドから下り膝を畳について、上
体をベッドに預け、顔全体を掛布団にのめり込ませている状態でした。
今までにもそんな姿は何度か見ていたので、ベッドに戻そうと身体を
抱き起すのですが、体がぐにゃぐにぁして変な具合です。顔色も薄暗
く口をあけたまま意識もなさそう。更には、心臓も動いてない?よう
でした。うつ伏せ寝で窒息したのかと思いつつ、少し心臓マッサージ
の真似事をしましたが、全く反応なしです。
えっ! えーっ? これ死んでるの? すぐ救急へ電話した。救急隊
が来てあたふた人工呼吸やら電気ショックを行ってましたが、心臓は
全く動かないままでした。
救:「どうしますか?」
私:「どう? って、もう心臓動いてないんでしょ。どうしたらって…」
救:「では、お見送りにしますか? それとも救命へ行きますか?」
私:「え、お見送り? まだ見込みがあるなら、救命へお願いします。」
ということで、地元の大学病院の救急救命(ICU)へ搬送され、様々
救命の処置が執られると、心臓が2回動いては止まりしたのが、3回
目で、これでダメなら延命打ち切りという処で、鼓動が戻りました。
母の心臓は病院に到着する前に、既に1時間以上は停止していたと思
われます。戻るとは言っても、脈拍は100以上と速く、血圧は正常
域になりましたが、眼光反射には無反応、時折顔面をピクつかせるも
のの意識はないままです。他のきょうだい達も駆けつけ、その日私は
夜の11時までICUの病室で様子見を続け、一旦帰宅しました。
一体、このような状態の人間って、回復するのだろうか、良くても植
物状態なのか等々、不安や心配や悲哀やら様々な感情が渦巻いて眠れ
ないまま、午前4時頃枕元の電話が鳴りました。出ると、やはり病院
からでした。心臓が止まりましたという知らせでした。すぐ自転車で
病院に向かい、再度心臓が止まった母と対面しました。自宅での発見
時より顔色が良くなっていましたが、これが最期の死に別れでした。
ご遺体を清拭して貰い、病院では死因を確認したいので、脳のCTス
キャンを撮って、その結果を医師が説明してくれました。脳にくも膜
下出血の跡があり、それで意識を喪失し心停止まで至ったのだろうと
いう話でした。あのとき母は、就眠中に頭がとても痛くなり、耐え切
れずベッドから下りたのでしょうか。私がもう少し早くに、気づいて
あげられたらと、少し後悔と心が痛む思いでした。
母は享年86歳と9か月。今月は丁度2年前に亡くなった父の三回忌
の予定でした。夫婦ともに9月に86歳で亡くなったことになります。
葬儀は、子供きょうだい等近親者のみで、告別式だけの一日葬を明後
日執り行います。
二年前亡くなった父が呼びにでも来たのでしょうか。最期はたいして
苦しまずに、母はあの世に行けたと思います。父も母も、昭和一桁の
戦中派ですが、母は子供時代から日本舞踊が趣味で、踊りを踊ってい
るときが一番楽しかったと言ってました。
母にとっては自分の人生って、どうだったかは知りませんが、勿論、
厭なこともたくさんあったのでしょうが、わりと幸運で幸福な方のヒ
トの人生だったような気が、私にはするのです。(合掌)