昨日、精神疾患患者の定例の集まりがあり、
近況報告替わりに、10数年ぶりに再読した本、
柳宗悦著『南無阿弥陀仏』の話をしたら、
周囲から引き合いが多かったので、当雑記帖に記したい。
少しお断りしておきたいが、
私は、神仏への信仰やら学を特にもつ者ではない。
また、柳宗悦も「仏教」を専門の生業にしていた方面の方とは異なる。
「南無阿弥陀仏」とは、よく知られた念仏である。
「無量寿(とこしなえ)の覚者(さとれるもの)に帰依し奉る」、
つまり、私は仏様の御心のままです、とでもいう意味であろう。
私は、同書で柳先生が「南無阿弥陀仏」をどう説かれていたか、
ふと、あるとき気に掛かり、古書を取り出し読み返してみた。
「南無阿弥陀仏を称えるということは何なのか。
何か功徳を希ったり、酬いを求めたりする念仏なら、
念仏とだにいうことは出来まい。
念仏とは、己れを棄てることなのである。
「六字六字」がその捨て場なのである。
(中略)
弥陀の摂取とは何なのか、
捨てるわが身を受け取って下さることなのである。
念仏には己れが残ってはならない。
念仏の有難さは、その捨て場を吾々に贈ってくれることである。」
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』岩波文庫p281より引用。改行は随時筆者による。)
つまり、
南無阿弥陀仏の六文字が、
我が身の「捨て場」であり、
その捨てた我が身は、仏様が受け取って下さる、
ということである。
この法話は、再読して胸詰まる程深く沁みた。
南無阿弥陀仏
六字の尊い有難さに、
心の霧が晴れるような、
救いを感じる思いである。
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柳宗悦著『南無阿弥陀仏』の話をしたら、
周囲から引き合いが多かったので、当雑記帖に記したい。
少しお断りしておきたいが、
私は、神仏への信仰やら学を特にもつ者ではない。
また、柳宗悦も「仏教」を専門の生業にしていた方面の方とは異なる。
「南無阿弥陀仏」とは、よく知られた念仏である。
「無量寿(とこしなえ)の覚者(さとれるもの)に帰依し奉る」、
つまり、私は仏様の御心のままです、とでもいう意味であろう。
私は、同書で柳先生が「南無阿弥陀仏」をどう説かれていたか、
ふと、あるとき気に掛かり、古書を取り出し読み返してみた。
「南無阿弥陀仏を称えるということは何なのか。
何か功徳を希ったり、酬いを求めたりする念仏なら、
念仏とだにいうことは出来まい。
念仏とは、己れを棄てることなのである。
「六字六字」がその捨て場なのである。
(中略)
弥陀の摂取とは何なのか、
捨てるわが身を受け取って下さることなのである。
念仏には己れが残ってはならない。
念仏の有難さは、その捨て場を吾々に贈ってくれることである。」
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』岩波文庫p281より引用。改行は随時筆者による。)
つまり、
南無阿弥陀仏の六文字が、
我が身の「捨て場」であり、
その捨てた我が身は、仏様が受け取って下さる、
ということである。
この法話は、再読して胸詰まる程深く沁みた。
南無阿弥陀仏
六字の尊い有難さに、
心の霧が晴れるような、
救いを感じる思いである。
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