ナオコーラさんの『この世は二人組ではできあがらない』を読んだ。
私は、彼女のとらわれのない作風や文章が好きである。
この作品には、作家を目指す女性主人公(シオ)と、フリータからの脱出
を図る恋人が登場するが、半実話とか、作者の自伝なのかもしれない。
我々の社会の基体は、男女カップルであり、結婚をし家庭を築くという
想定で成り立っている。シオは三人組でも五人組でも構わないのではと、
表白している。
どうして社会は、コレだけと示して、人の生き方に枠を嵌め、
限定的な有り方ばかり強制するのだろうか?
ゲイのカップルだけではなく、男二人に女一人の家庭があっても、私も
いいと思う。うまくいかなければ、家庭を再編制すればいいのである。
国家や制度が、男女一対のカップルを人生のかたちとして規律する理由
に、どれだけ正当性や合理性があるのだろうか、とも思う。
人間は社会的動物であり、制度的な存在である。
サルの群れにも社会があり、原始的な規則や制度があるかもしれないが、
人間のみが言語等の記号を操ることで極めて高度で精緻な制度をもつ。
男女、結婚、家庭、就職・労働、学校・教育、病院・医療、犯罪・刑罰、
政治や経済、外交・軍事等々、切りがないが、社会全体が重畳的な仕組
の束たる「制度」の中に、我々は存在している。だから「制度」を前提
にしない思考や言動は、ときに「常識がない」と非難される。
ナオコーラ作品は哲学的である。
反「制度」的なのではなく、それから外れたナチュラルな感受性で、
自分の存在や社会をしっかりと見詰めているように思う。
大人になった我々にとって、自然な感性とか発想といっても、どこか
「制度」(「常識」と言ってもいい)に則した保守性が名残るものだ。
「制度」的社会や「制度」的人間を前にして、ナオコーラさんは、
ナチュラルで緩やかな手付きで、「制度」や世の常識と戯れつつ、
愉快そうに笑っているかのようである。
コーラが好きだから、ペンネームが「ナオコーラ」というのも、
ふざけて楽しんでいるのか、何だか分からないけども、
彼女の、天性の骨太さに今後とも期待させて頂きます。
私は、彼女のとらわれのない作風や文章が好きである。
この作品には、作家を目指す女性主人公(シオ)と、フリータからの脱出
を図る恋人が登場するが、半実話とか、作者の自伝なのかもしれない。
我々の社会の基体は、男女カップルであり、結婚をし家庭を築くという
想定で成り立っている。シオは三人組でも五人組でも構わないのではと、
表白している。
どうして社会は、コレだけと示して、人の生き方に枠を嵌め、
限定的な有り方ばかり強制するのだろうか?
ゲイのカップルだけではなく、男二人に女一人の家庭があっても、私も
いいと思う。うまくいかなければ、家庭を再編制すればいいのである。
国家や制度が、男女一対のカップルを人生のかたちとして規律する理由
に、どれだけ正当性や合理性があるのだろうか、とも思う。
人間は社会的動物であり、制度的な存在である。
サルの群れにも社会があり、原始的な規則や制度があるかもしれないが、
人間のみが言語等の記号を操ることで極めて高度で精緻な制度をもつ。
男女、結婚、家庭、就職・労働、学校・教育、病院・医療、犯罪・刑罰、
政治や経済、外交・軍事等々、切りがないが、社会全体が重畳的な仕組
の束たる「制度」の中に、我々は存在している。だから「制度」を前提
にしない思考や言動は、ときに「常識がない」と非難される。
ナオコーラ作品は哲学的である。
反「制度」的なのではなく、それから外れたナチュラルな感受性で、
自分の存在や社会をしっかりと見詰めているように思う。
大人になった我々にとって、自然な感性とか発想といっても、どこか
「制度」(「常識」と言ってもいい)に則した保守性が名残るものだ。
「制度」的社会や「制度」的人間を前にして、ナオコーラさんは、
ナチュラルで緩やかな手付きで、「制度」や世の常識と戯れつつ、
愉快そうに笑っているかのようである。
コーラが好きだから、ペンネームが「ナオコーラ」というのも、
ふざけて楽しんでいるのか、何だか分からないけども、
彼女の、天性の骨太さに今後とも期待させて頂きます。