昼間、電車に乗っていたら、ふと「あ、みんな平等だ」と思った。
電車の中には、会社社長もいれば、裁判官もキャリア官僚もいるの
だろう。年金生活者も失業者もいれば、ランドセルの小学生や茶髪
の男女、足の悪い障害者や妊婦、医者や弁護士、教師にヤクザ、
泥棒や人殺しだっていることだろう。
だが、この輸送システムの乗客としては、皆、ただの乗客である。
個別の差異が抹消された、モナドのような単位の存在でしかない。
システムや制度というものは、それらの運用の都合次第により、
公共性、合理性、機動性、整合性等々の要請で、人間を物体と数の抽象
に貶める。この、システムの強制と自動性とは、それは‥、かつて
フランクフルトの哲学者が嫌悪した、死の工場アウシュビッツの野蛮に
も一面、似てはいないだろうか?
今日、人は自動改札にタッチして、やって来た電車に乗り込み、ケータイ
画面を眺めながら、会社に向かう。その間、誰と口を利く必要もない。
仕事がパソコン主体なら、さらに対面コミュニケーションは乏しくなる。
会社業務も、コンピュータ・システムで仕組まれ廻っている。
一番、人間的な風景は食事をしている姿だが、それでさえ、コンビニで
買ったサンドイッチを頬張りながら、パソコン操作をしたりしている。
午後の仕事を終え、朝とは逆のコースを辿り帰宅する。そして、
自分の部屋で、テレビ、夕食、ケータイ、パソコン、読書・音楽、あと
風呂、寝る。誰の生活も同じ、差異なき画一性の流れがあるだけ‥。
社会生活を覆っているのは、システムという便利な「野蛮」(?)である。
例えば朝の改札で、オレは、人がキップにハサミを入れ、おはようの挨拶
を交わしたいのだと、駅員に個別に要求する人はいない。
システムが敷かれ機械が導入されれば、その勝手に従わなければならない。
法や規則さえ、コンピュータやシステムの論理を中心に変更されるだろう。
我々はシステムの中では、仮象にも、サルであることを強いられる。
サルは考えない。餌を貰う為には、仕込まれた芸を反復するだけ。
機械は人間が作り、人間が設定した時間軸を動くもの。人間には時間が
あり未来を創造する自由がある。が、果たして、どうだろう?
寧ろ、人間が機械やシステムが設定した時間と空間を動いているだけなの
ではなかろうか?
社会を最も支配しているのは、資本でも人間でもなくシステムではないか?
人間の歴史は、終章の始まりを綴りつつある。
やがて人間さえも、人工知能だかアンドロイドに置き換わり、人間が駆逐
され、人類は社会を、歴史を、システムという非人称に奪われ、人類不在
で、歴史は終息するのでは?
ヘーゲルは、歴史の展開に弁証法というロジックを見た。
主体は客体を統合し止揚しゆく。意識は経験を経て精神へ向かう。
だが主体は、客体を経験する程の、リアルな現場を保持しているか?
この社会で、個人の自立(自律)とは、社会の制度に生存の場所を有するこ
とであり、自律の方はシステムに委ねられている。
システムとは、例えば天候が自然なら、人為の自然、第二の自然だ。
歴史の弁証法が乗り越え不能な、最後のものがシステムではないのか。
人間界が到達した絶対精神とは、<システム>である。
以後世界は<システム>という「絶対精神」の自己展開となる。
<システム>という文明の野蛮が星を席巻し、人間の歴史が終わる。
やがて、誰もいなくなるだろう。サルさえも。
人類は、静まり返った老人病院で、食う-寝る-排泄を繰り返しつつ、
アンドロイドの美人看護士に囲まれ、安穏と死を待つ老人となるだろう。
文明論のペジミズムを綴るようだが、
戦争・テロ、ウィルス感染等自然界の脅威より先に、人類は<システム>
に囲繞され、人間たる身体性も感受性も喪失していく内に、その自縛さえ
自覚しないまま、人間を棄却し終える予感がしている。
電車の中には、会社社長もいれば、裁判官もキャリア官僚もいるの
だろう。年金生活者も失業者もいれば、ランドセルの小学生や茶髪
の男女、足の悪い障害者や妊婦、医者や弁護士、教師にヤクザ、
泥棒や人殺しだっていることだろう。
だが、この輸送システムの乗客としては、皆、ただの乗客である。
個別の差異が抹消された、モナドのような単位の存在でしかない。
システムや制度というものは、それらの運用の都合次第により、
公共性、合理性、機動性、整合性等々の要請で、人間を物体と数の抽象
に貶める。この、システムの強制と自動性とは、それは‥、かつて
フランクフルトの哲学者が嫌悪した、死の工場アウシュビッツの野蛮に
も一面、似てはいないだろうか?
今日、人は自動改札にタッチして、やって来た電車に乗り込み、ケータイ
画面を眺めながら、会社に向かう。その間、誰と口を利く必要もない。
仕事がパソコン主体なら、さらに対面コミュニケーションは乏しくなる。
会社業務も、コンピュータ・システムで仕組まれ廻っている。
一番、人間的な風景は食事をしている姿だが、それでさえ、コンビニで
買ったサンドイッチを頬張りながら、パソコン操作をしたりしている。
午後の仕事を終え、朝とは逆のコースを辿り帰宅する。そして、
自分の部屋で、テレビ、夕食、ケータイ、パソコン、読書・音楽、あと
風呂、寝る。誰の生活も同じ、差異なき画一性の流れがあるだけ‥。
社会生活を覆っているのは、システムという便利な「野蛮」(?)である。
例えば朝の改札で、オレは、人がキップにハサミを入れ、おはようの挨拶
を交わしたいのだと、駅員に個別に要求する人はいない。
システムが敷かれ機械が導入されれば、その勝手に従わなければならない。
法や規則さえ、コンピュータやシステムの論理を中心に変更されるだろう。
我々はシステムの中では、仮象にも、サルであることを強いられる。
サルは考えない。餌を貰う為には、仕込まれた芸を反復するだけ。
機械は人間が作り、人間が設定した時間軸を動くもの。人間には時間が
あり未来を創造する自由がある。が、果たして、どうだろう?
寧ろ、人間が機械やシステムが設定した時間と空間を動いているだけなの
ではなかろうか?
社会を最も支配しているのは、資本でも人間でもなくシステムではないか?
人間の歴史は、終章の始まりを綴りつつある。
やがて人間さえも、人工知能だかアンドロイドに置き換わり、人間が駆逐
され、人類は社会を、歴史を、システムという非人称に奪われ、人類不在
で、歴史は終息するのでは?
ヘーゲルは、歴史の展開に弁証法というロジックを見た。
主体は客体を統合し止揚しゆく。意識は経験を経て精神へ向かう。
だが主体は、客体を経験する程の、リアルな現場を保持しているか?
この社会で、個人の自立(自律)とは、社会の制度に生存の場所を有するこ
とであり、自律の方はシステムに委ねられている。
システムとは、例えば天候が自然なら、人為の自然、第二の自然だ。
歴史の弁証法が乗り越え不能な、最後のものがシステムではないのか。
人間界が到達した絶対精神とは、<システム>である。
以後世界は<システム>という「絶対精神」の自己展開となる。
<システム>という文明の野蛮が星を席巻し、人間の歴史が終わる。
やがて、誰もいなくなるだろう。サルさえも。
人類は、静まり返った老人病院で、食う-寝る-排泄を繰り返しつつ、
アンドロイドの美人看護士に囲まれ、安穏と死を待つ老人となるだろう。
文明論のペジミズムを綴るようだが、
戦争・テロ、ウィルス感染等自然界の脅威より先に、人類は<システム>
に囲繞され、人間たる身体性も感受性も喪失していく内に、その自縛さえ
自覚しないまま、人間を棄却し終える予感がしている。
私は哲学のことはあまり分かりませんが
今会社に行き初めて仕事をして
ちょっと感じたことを思い出しました。
会社にとって新しい仕事の話が入り
私がこれまで在宅でやってきた仕事と
分野がかぶったので担当になりました。
とりあえず私が作業を進めましたが
会社としては
誰がやってもできるようにシステム化、機械作業化をして
将来外注に任せたり他の人に担当させたりしたいと言うのです。
しかしその制作作業は作品の完成度をかんがみて
細かい思慮や各部の統一が必要で
(他の人は必要と思ってないのですが)
機械作業にはできないと思うのです。
私のこだわりとか細部に息のかかった作品作りとかの意思は
会社、分業作業、効率化、というところでは
無になるような感覚があります。
お久しぶりです。
コメントありがとう。
業務のシステム化の流れは、会社のような営利目的の場所では、最小コストで最大利益を出すという資本主義の原理が、年々強まっているように見えますね。
手作業よりも機械の方が、効率が良いことは多いでしょうけど、モノ作りの場合、手作業の味わいが、人間的な風味や配慮が消えてしまって良いのかは、モノに応じて、よく考えるべきでしょうね。
その手仕事に職人的なこだわりがある人ほど、機械的なシステムで、それをやってしまうことに淋しさや、出来具合への不満があると思います。
そのように、システムという思想によって、社会から「人間的なもの」がどんどん駆逐されていくのが、歴史の必然のようです。この流れは、もはや誰にも止められないわけです。
コンピュータは便利ですし、結構な代物ですが、コンピュータが、あるいはシステムが、いかに優れた答えを出してきても、自分は自分の頭で、自分の感性で物事を感じ考えたいと思っています。