ファッションのレンタルサービスというのがあるらしい。ブランド服や
バッグ・装飾品等の賃貸商売で、服は洗濯なしで返せるという。ネット
で調べてみたが、スタイリストがコーディネイトしてくれたり、写真撮
影してくれたりなど、付帯メニューの品揃えもあるようだ。
冠婚葬祭の貸衣装というのは昔からあるが、日常服のレンタル商売とい
う発想は余り考えられなかったと思う。私の感覚では、服くらい買えば
よかろうし、日常に高級服を着飾る必要がどれだけあるのかとも思う。
が、「必要」なのではなく自分の見栄えへの「満足」を過剰に求めてい
るのだろうか。
持家資金がないのでアパートを借りるなら分かるが、ブランド服を普段
着用に借りたいという感覚は、何か過剰な気がする。奢侈にハマって消
費者金融から高利の借金をするのと、高級服をレンタルで消費すること
はかなり近い関係にある気がする。
カネがないなら高級ブランドなど着なければいいだけであるのに、カネ
に余裕のないヒトにまで、そんな背伸びした消費を欲望させ可能にさせ
る業態である。誘惑型の業種・業態という感じだが、どうして無理なカ
ネを捻出し身の丈を超えてまでも、着飾りたがるのか 私には不可解で
ある。
見栄と欲を煽るビジネスモデルは、資本主義の宿痾だ。資本主義とは、
ノドが乾いたら塩水を与えることで発展する経済モデルであるなら、
歯止めや参照とすべき倫理規範を整えねばならないのだが‥。
資本主義の話は擱いといて、そんなことよりも、現代において個人とは、
中身のないただのイコンなんだな。言ってみれば、個人とは「画像」に
過ぎない状況ではないか、と思い浮かんだ。
前回、個人の加算合計、集合体としての社会の消失、社会とは個人の不
在なる、様々なシステムの束である、社会とは個人を駆動する<システ
ム>総体である、そして、個人が<システム>の奴隷に過ぎなくなる危
険性について、記したつもりである。
改めて社会における個人について考えてみると、現代において個人とは、
年齢・性別・職業・学歴・地位・身分・年収等の属性や資質よりも、単
にどう見えるかの「画像」的印象の存在感が、前時代に比してかなり強
くなっていると思う。
インターネットが普及して以後、画像的な表出性と画像流通は著しく高
まっている訳であるが、そんな情勢の中で、人間個人も中身よりも表面
的な、画像的存在体に変位している。個人の存在位相がそんな状況だか
らこそ、ファッション・レンタルサービスという商売も、時代の需要か
らして成り立つ土壌になったのだと思う。
個人とは、ネットワーク内で表出し合う相互関係では、「画像」である
として、<システム>的管理の上では、「記号・番号」になっていくの
だろう。ネットもある種のリアルではあるが、情報とは、故意ではなく
ともズレや詐術を孕むものであり、我々は益々、生身の現実感覚を研ぎ
澄ます必要性が高まっているのである。
バッグ・装飾品等の賃貸商売で、服は洗濯なしで返せるという。ネット
で調べてみたが、スタイリストがコーディネイトしてくれたり、写真撮
影してくれたりなど、付帯メニューの品揃えもあるようだ。
冠婚葬祭の貸衣装というのは昔からあるが、日常服のレンタル商売とい
う発想は余り考えられなかったと思う。私の感覚では、服くらい買えば
よかろうし、日常に高級服を着飾る必要がどれだけあるのかとも思う。
が、「必要」なのではなく自分の見栄えへの「満足」を過剰に求めてい
るのだろうか。
持家資金がないのでアパートを借りるなら分かるが、ブランド服を普段
着用に借りたいという感覚は、何か過剰な気がする。奢侈にハマって消
費者金融から高利の借金をするのと、高級服をレンタルで消費すること
はかなり近い関係にある気がする。
カネがないなら高級ブランドなど着なければいいだけであるのに、カネ
に余裕のないヒトにまで、そんな背伸びした消費を欲望させ可能にさせ
る業態である。誘惑型の業種・業態という感じだが、どうして無理なカ
ネを捻出し身の丈を超えてまでも、着飾りたがるのか 私には不可解で
ある。
見栄と欲を煽るビジネスモデルは、資本主義の宿痾だ。資本主義とは、
ノドが乾いたら塩水を与えることで発展する経済モデルであるなら、
歯止めや参照とすべき倫理規範を整えねばならないのだが‥。
資本主義の話は擱いといて、そんなことよりも、現代において個人とは、
中身のないただのイコンなんだな。言ってみれば、個人とは「画像」に
過ぎない状況ではないか、と思い浮かんだ。
前回、個人の加算合計、集合体としての社会の消失、社会とは個人の不
在なる、様々なシステムの束である、社会とは個人を駆動する<システ
ム>総体である、そして、個人が<システム>の奴隷に過ぎなくなる危
険性について、記したつもりである。
改めて社会における個人について考えてみると、現代において個人とは、
年齢・性別・職業・学歴・地位・身分・年収等の属性や資質よりも、単
にどう見えるかの「画像」的印象の存在感が、前時代に比してかなり強
くなっていると思う。
インターネットが普及して以後、画像的な表出性と画像流通は著しく高
まっている訳であるが、そんな情勢の中で、人間個人も中身よりも表面
的な、画像的存在体に変位している。個人の存在位相がそんな状況だか
らこそ、ファッション・レンタルサービスという商売も、時代の需要か
らして成り立つ土壌になったのだと思う。
個人とは、ネットワーク内で表出し合う相互関係では、「画像」である
として、<システム>的管理の上では、「記号・番号」になっていくの
だろう。ネットもある種のリアルではあるが、情報とは、故意ではなく
ともズレや詐術を孕むものであり、我々は益々、生身の現実感覚を研ぎ
澄ます必要性が高まっているのである。