脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

最後に捨てるもの。

2016年04月10日 10時15分16秒 | コギト
モノを持たないミニマリストだの、「捨てる」ことが「技術」だのと
モノ離れに関心が集まる。最後に捨てるもの、手放さざるを得ないも
のが、自分自身(の肉体)である。これを、どう捨てるべきか?

私は昨年心筋梗塞をやってから、自分の死が身近に思えるようになっ
てきた。観念としての死ではなく、生の最後に備え自分を手放す用意
をしておくのもアリかなと思う。私よりも80代の両親の死の方が先
だろうが、親の死も含めて、葬儀その他実務的な方面についてボチボ
チ「終活」を始めてみようと思う。

手始めに、TVでも取り上げられたらしい、ネット広告の「小さなお
葬式」に資料請求してみた。すぐにパンフレットと見積書が届いた。
各税込みで「小さな火葬式」が248,000円、「小さな一日葬」398,000
円、海洋散骨が55,000円、永代供養(共同)墓が55,000円等、だそうだ。

私は自分の葬式は不要、火葬のみでいいのだが、諸般の事情から形式
だけでも葬儀をやるとしたら、近所の斎場で「小さな火葬式」をして、
共同墓地に永代供養されれば、これで自分を簡素に捨てられると思っ
たが、祖父母伝来の墓地が近所のお寺にあるのは、どうしよう?

私は独身者で長男である。祖父母が眠る墓、さらには両親が埋葬され
るであろう墓がある。自分だけ他所の共同墓地に入るのはイカガナモ
ノカとなる。自分も御先祖の墓に入るべきだろうか。私の死後には、
今のところ墓の継承者がいないのであるが。

人間の死とは、社会文化的な「死」である。イエや血族という家族の
繋がりや風習があり、自分の死でさえ、自分で「死」を自己決定し自
己完結し難いしがらみがある。「死」の意味づけは、生者が勝手にす
るものだが、「先祖代々の墓」という土着宗教的な「死」の風習・仕
組みは、個人を家族の系譜に位置付けて、個人を独立したいち個人に
させてはくれない。

ヒトは戒名が与えられても、家族や苗字から自由にはなれない。「死」
とは、生者の側に帰属する事態でありイベントであり、生者の観念的
所有物だからだろうか。例えば墓とは、生者(主に近親者)の思い出に
奉仕するための記念物なのだろう。

墓とは死者を捨てる場所ではなく、この世から去った者を新めて現世
に据えて温存する仕組みにも思える。私は寧ろ、自分の痕跡もなく消
えたいのである。が、墓(に眠る)という形で、現世との繋がりを続け
るように定位(物語り)されるのが、人間の社会文化なのだろう。

しかし自分(或いは、の痕跡)とは、後に残る親族・縁者のため?には、
抹消してはいけないのか? 死とは、この世との絶縁ではなく、死者
として刻印を換えて、死者はこの世に帰属し続けるべきものなのだろ
うか? 死んだのだから、全的に彼岸の存在だと思うのだが。

何だかまた、観念的に死を語るモノローグに戻ってしまったようだ。

「死」もまた現代資本主義の商品である。平成の現代、セット売りさ
れたネット商品としての「死」を申し込んで、そんな売り物の「死」
をヒトは死ぬ。我々は、膨大な商品の大海に飲まれ、死ぬときも消費
として値札の付いた「死」(税込)を死ぬのだ。

この現代的な「死」は笑える。笑い話のような、人間コントだ。
現代人は消費マシーンである。国の経済政策だって、ヒトを消費機械
としてしか見ていない。それへの疑義、そこからの脱却が、断捨離と
か「捨てる技術」だったりするのだろう。

人間(=商品)的な、あまりに人間的な悲喜劇。この滑稽を肯定しよう。
笑って、死ぬために。現実とは、ヒトが商品と舞い踊る道化の海であ
る。これが、(サルより少し進歩した)人類文化である。人間は神では
ない以上、多分こんなモンなのだろうし、これでいいのだ!?


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