昨夜、ついに東京五輪2020が開幕された。中止せよの世論の逆風下、コロナ緊急事態下での開催である。
私は、五輪の東京誘致そのものに当初から反対であるが、開幕したとなれば、歴史的記念イベントとして、
開会式くらいは見納めたいと思い、TV中継を最初の30分位観た。印象を一言でいえば、地味なセレモニー
だった。小演劇だか笑いのないコントでも見ているような、無味乾燥で有り体な内容で、これに何兆掛けた
ものやらと、ため息が漏れて脱力した。
確か64年の東京五輪は青空の下、昼間の開会式だったが、今回はどうして夜間の開会式典になっている
のだろう?コロナ感染防止により「無観客開催」となったが、式典参加者(900人位は居たらしい)の実在映像
をボカすためなのだろうか?それとも海外放映上の時刻調整で、日本時間では夜の開会式となったのか。
何だか、64・五輪の晴れやかな記憶に比べ、あまりに暗過ぎて見劣り感がして「華」がないのが残念だった。
もうこれ以上、オリンピックについて書く気が興らない。(まるで、凍興五輪だ。)
オリンピックに材を採ってブログ更新の機会にしようと思ってたが、勧興がないんだよね。子供の頃観た夏
のオリンピックは、とても感動に震えるものだった。多感な少年時代だっただけに、五輪は心底素晴らしい
と素直に思ってた。「世界」という大舞台で覇を競える選手たちが輝いて見えたし、自分もあんな風に成れ
たらなと、手の届かない世界への、儚くまた切ないような気持ちを抱いたものだ。
そんな五輪大会が、今やカネ塗れで淀んで見える。自分の目線が大人になったせいでもなく、いまや小学生でも
五輪が純粋なスポーツの感動よりも、カネ儲けの道具に成り下がっている事情は、薄々は知っているだろう。
この件でアスリートの方々には何の非もない。大風呂敷に言えば、現代資本主義の何でも「商品」化する圧倒的
な力が、その歯車が、人の自然で道理に適ったあり方までも、捻じ曲げて進んでいる、ということだと思う。
もう五輪の話は終わり。
私は自宅でFXをやるが、ろうそく足チャートの画面を見続けて退屈すると、つまみ食いのようにYouTubeの投稿
をザッピングする。ニュースになり以前から知ってはいたが、ジュノン・ボーイで話題の「井手上 漠」君の動
画を見かけた。そしたら、彼(アレ、彼女?)の余りの可愛らしさに目を瞠った。
彼は勿論男、島根県の島嶼部の出身で、今春高校を卒業したての18歳。2,3年前だかのジュノン・コンテス
トの時には、私は彼をさほど女性っぽくは感じなかった。性格の良さそうなカワイイ系ボーイだった。本人は
自身を「男性でも女性でもない」存在というが、現在の外見はすっかりカワイイ女の子、又は美人女性である。
未成年でもあり、女性ホルモンは打ってないそうだが、声までカワイイ女の子であるのが、不思議。
不意に「井手上 漠」という人間が気になってきた。彼は既に中学時代、ジェンダー平等の主張を弁論大会で述
べている社会派の一面もある。高校時代はスカートをはいて女の子らしい容姿で過ごしてもいたようだ。彼は
幼少期から性別そのものよりも、性差の文化であるジェンダー(~らしさ)への違和感が根強かったらしい。
そう言えば、私自身も若い頃に何度か、性の自己同一性についての不適応クライシスがあった。それは20歳前後
まで続き、性別や性差への違和感、男性性にも女性性にも馴染めない宙ぶらりん感があった。いや今でも残る。
私は性自認は一貫して「男」で異性愛者、化粧・女装したこともその趣味もないけど、漠君のような存在感に出会
うと、自分の中の深くで何かがぐらつく。何かが、彼のような存在感と共振してしまう。どうしてだろうか?
俗にいえば「美少年愛」? でも稚児さん愛とかいうのは、やはり違うと思う。男からも女からも外れた単独者
への同情だか愛着・愛情に近い。でも漠君は、「男でも女でもない」と言いながらも、「綺麗な女性」の方向に
好んで進んでいるように見える。道を選ぶのは彼の自由であり、彼が自分の表現を開拓し磨くことは良いことだ。
性差の文化においても、人は自由であるべきだし、そんな世の中の流れに、私は自由主義者として賛成である。
でもここで今考えたいことは、性差混乱・混交のクライシスとか、性の同一性を巡る、内面のぐらつきである。
それは、健全な自己形成とか自己同一性を獲得することに大きく影響する。通常男の子は父親を、女の子は母親
を、役割モデルとして自己の定位置や成長の方向を定める。私の場合、両親は健在だったが、父の存在感や情緒
面考え方の一切に馴染めなかったし、同性として成長モデルを同一視することがゾッとする程、嫌だった。また
兄弟が多かったせいもあり、母親との距離はいつも遠かったし、母親も好きではなかった。
(蛇足だが、同居してた祖父には愛人が居て、愛人との間には、私とも歳の近い女の子がいた。
私の家は、裕福だった家庭が没落した果ての斜陽家庭であり、自営業での生活は困窮していた。)
「同一視すべき成長モデル」の不在。
そこにこそ、私の性差の一致にぐらつきを生じさせる原因があったのでは、とつい最近思うに至った。
こう考えるきっかけが「井手上 漠」君が放つ存在感だった。彼の家庭環境や生育履歴、家族構成等の詳細は、何
も知らない。母親と一歳上の姉がいるらしい。どうしてか父親については語られてないことが、気にかかる。
以下は、私の勝手な邪推であるが、彼も「同一視すべき成長モデル」としての、同性である父という存在が希薄な育
ちなのかな。これは既に著名人でもある、彼や家族のプライバシーにも関わるので、市井のいち個人の妄想とでも、
受け取って頂きたいところです。明確に伝えておきますが、私は、彼の容姿や優しい内面性、洗練された女性しぐさ
等、トータルに好きです。しかし、この「好き」が自分の何処から、よって来るものなのか、むしろそこにも解明し
たい別の謎があり、若くて美しい女性そのもののような、男の娘・井手上 漠君を<鏡>に見詰め、つい独り夜更け
まで、頭が廻り始めては、考え込んでしまいました。
(この文の趣意は「同性愛」のお話ではなく、シンパシーであり、遠い日の自分へのオマージュに似た感情です。)
私は、五輪の東京誘致そのものに当初から反対であるが、開幕したとなれば、歴史的記念イベントとして、
開会式くらいは見納めたいと思い、TV中継を最初の30分位観た。印象を一言でいえば、地味なセレモニー
だった。小演劇だか笑いのないコントでも見ているような、無味乾燥で有り体な内容で、これに何兆掛けた
ものやらと、ため息が漏れて脱力した。
確か64年の東京五輪は青空の下、昼間の開会式だったが、今回はどうして夜間の開会式典になっている
のだろう?コロナ感染防止により「無観客開催」となったが、式典参加者(900人位は居たらしい)の実在映像
をボカすためなのだろうか?それとも海外放映上の時刻調整で、日本時間では夜の開会式となったのか。
何だか、64・五輪の晴れやかな記憶に比べ、あまりに暗過ぎて見劣り感がして「華」がないのが残念だった。
もうこれ以上、オリンピックについて書く気が興らない。(まるで、凍興五輪だ。)
オリンピックに材を採ってブログ更新の機会にしようと思ってたが、勧興がないんだよね。子供の頃観た夏
のオリンピックは、とても感動に震えるものだった。多感な少年時代だっただけに、五輪は心底素晴らしい
と素直に思ってた。「世界」という大舞台で覇を競える選手たちが輝いて見えたし、自分もあんな風に成れ
たらなと、手の届かない世界への、儚くまた切ないような気持ちを抱いたものだ。
そんな五輪大会が、今やカネ塗れで淀んで見える。自分の目線が大人になったせいでもなく、いまや小学生でも
五輪が純粋なスポーツの感動よりも、カネ儲けの道具に成り下がっている事情は、薄々は知っているだろう。
この件でアスリートの方々には何の非もない。大風呂敷に言えば、現代資本主義の何でも「商品」化する圧倒的
な力が、その歯車が、人の自然で道理に適ったあり方までも、捻じ曲げて進んでいる、ということだと思う。
もう五輪の話は終わり。
私は自宅でFXをやるが、ろうそく足チャートの画面を見続けて退屈すると、つまみ食いのようにYouTubeの投稿
をザッピングする。ニュースになり以前から知ってはいたが、ジュノン・ボーイで話題の「井手上 漠」君の動
画を見かけた。そしたら、彼(アレ、彼女?)の余りの可愛らしさに目を瞠った。
彼は勿論男、島根県の島嶼部の出身で、今春高校を卒業したての18歳。2,3年前だかのジュノン・コンテス
トの時には、私は彼をさほど女性っぽくは感じなかった。性格の良さそうなカワイイ系ボーイだった。本人は
自身を「男性でも女性でもない」存在というが、現在の外見はすっかりカワイイ女の子、又は美人女性である。
未成年でもあり、女性ホルモンは打ってないそうだが、声までカワイイ女の子であるのが、不思議。
不意に「井手上 漠」という人間が気になってきた。彼は既に中学時代、ジェンダー平等の主張を弁論大会で述
べている社会派の一面もある。高校時代はスカートをはいて女の子らしい容姿で過ごしてもいたようだ。彼は
幼少期から性別そのものよりも、性差の文化であるジェンダー(~らしさ)への違和感が根強かったらしい。
そう言えば、私自身も若い頃に何度か、性の自己同一性についての不適応クライシスがあった。それは20歳前後
まで続き、性別や性差への違和感、男性性にも女性性にも馴染めない宙ぶらりん感があった。いや今でも残る。
私は性自認は一貫して「男」で異性愛者、化粧・女装したこともその趣味もないけど、漠君のような存在感に出会
うと、自分の中の深くで何かがぐらつく。何かが、彼のような存在感と共振してしまう。どうしてだろうか?
俗にいえば「美少年愛」? でも稚児さん愛とかいうのは、やはり違うと思う。男からも女からも外れた単独者
への同情だか愛着・愛情に近い。でも漠君は、「男でも女でもない」と言いながらも、「綺麗な女性」の方向に
好んで進んでいるように見える。道を選ぶのは彼の自由であり、彼が自分の表現を開拓し磨くことは良いことだ。
性差の文化においても、人は自由であるべきだし、そんな世の中の流れに、私は自由主義者として賛成である。
でもここで今考えたいことは、性差混乱・混交のクライシスとか、性の同一性を巡る、内面のぐらつきである。
それは、健全な自己形成とか自己同一性を獲得することに大きく影響する。通常男の子は父親を、女の子は母親
を、役割モデルとして自己の定位置や成長の方向を定める。私の場合、両親は健在だったが、父の存在感や情緒
面考え方の一切に馴染めなかったし、同性として成長モデルを同一視することがゾッとする程、嫌だった。また
兄弟が多かったせいもあり、母親との距離はいつも遠かったし、母親も好きではなかった。
(蛇足だが、同居してた祖父には愛人が居て、愛人との間には、私とも歳の近い女の子がいた。
私の家は、裕福だった家庭が没落した果ての斜陽家庭であり、自営業での生活は困窮していた。)
「同一視すべき成長モデル」の不在。
そこにこそ、私の性差の一致にぐらつきを生じさせる原因があったのでは、とつい最近思うに至った。
こう考えるきっかけが「井手上 漠」君が放つ存在感だった。彼の家庭環境や生育履歴、家族構成等の詳細は、何
も知らない。母親と一歳上の姉がいるらしい。どうしてか父親については語られてないことが、気にかかる。
以下は、私の勝手な邪推であるが、彼も「同一視すべき成長モデル」としての、同性である父という存在が希薄な育
ちなのかな。これは既に著名人でもある、彼や家族のプライバシーにも関わるので、市井のいち個人の妄想とでも、
受け取って頂きたいところです。明確に伝えておきますが、私は、彼の容姿や優しい内面性、洗練された女性しぐさ
等、トータルに好きです。しかし、この「好き」が自分の何処から、よって来るものなのか、むしろそこにも解明し
たい別の謎があり、若くて美しい女性そのもののような、男の娘・井手上 漠君を<鏡>に見詰め、つい独り夜更け
まで、頭が廻り始めては、考え込んでしまいました。
(この文の趣意は「同性愛」のお話ではなく、シンパシーであり、遠い日の自分へのオマージュに似た感情です。)