日本で「アルゼンチン音響派」として知られるミュージシャンたち、
フアナ・モリーナ、アレハンドロ・フラノフとかフェルナンド・カブ
サッキ等だが、ダントツで支持したいのは、モノ・フォンタナである。
フアナ・モリーナの『Segundo』も名盤だけど、フォンタナの『Cribas』
を聴いたとき、久々に自分が求める音楽と出会えたと、嬉しくなった。
「音楽」というよりは、まさに音響空間の提示なのである。絵画や映像
のように、「音」を視覚的な「像」として表現しているかのようである。
例えば、古びた洋館の、ほとんど調度品も何も置かれてない無人の一室
が目蓋に浮かぶ。部屋の扉を開けると、淡い午後の陽差しが板間の床を
照らしている。大きな窓を透かしては、遠景には何もなく、青空の下で
木々が揺れている。風がカーテンを少し翻したりしている。
そんな情景に、時計が時を刻む音が響く。風の音も聞こえる。ピアノの
ような音が、空白の室内にこぼれて、水のように流れる。音と音が水の
ように戯れる。ドビュシーやラベルのような「水」とも異なる、ピアノ
の水音である。ゆったりとして幻想的な水音ではなく、より現実的で変
化に富んだ、小さな流水の彩りが呟いているような、音と響きである。
こんなフォンタナの『Cribas』を聴いていると眠たくなる。私は、自分
を眠らせてくれる音楽が大好きである。優れた音楽はヒトを興奮で目覚
めさせるか、気持ちよく豊かに眠らせるものかのどっちかだと思う。
私は、自分を眠りへと解放してくれる音楽に浸っていることが好きであ
る。そんな音楽に微睡(まどろ)んでいる時空にあるときが、人生の至福
の一刻であると思うから。
フアナ・モリーナ、アレハンドロ・フラノフとかフェルナンド・カブ
サッキ等だが、ダントツで支持したいのは、モノ・フォンタナである。
フアナ・モリーナの『Segundo』も名盤だけど、フォンタナの『Cribas』
を聴いたとき、久々に自分が求める音楽と出会えたと、嬉しくなった。
「音楽」というよりは、まさに音響空間の提示なのである。絵画や映像
のように、「音」を視覚的な「像」として表現しているかのようである。
例えば、古びた洋館の、ほとんど調度品も何も置かれてない無人の一室
が目蓋に浮かぶ。部屋の扉を開けると、淡い午後の陽差しが板間の床を
照らしている。大きな窓を透かしては、遠景には何もなく、青空の下で
木々が揺れている。風がカーテンを少し翻したりしている。
そんな情景に、時計が時を刻む音が響く。風の音も聞こえる。ピアノの
ような音が、空白の室内にこぼれて、水のように流れる。音と音が水の
ように戯れる。ドビュシーやラベルのような「水」とも異なる、ピアノ
の水音である。ゆったりとして幻想的な水音ではなく、より現実的で変
化に富んだ、小さな流水の彩りが呟いているような、音と響きである。
こんなフォンタナの『Cribas』を聴いていると眠たくなる。私は、自分
を眠らせてくれる音楽が大好きである。優れた音楽はヒトを興奮で目覚
めさせるか、気持ちよく豊かに眠らせるものかのどっちかだと思う。
私は、自分を眠りへと解放してくれる音楽に浸っていることが好きであ
る。そんな音楽に微睡(まどろ)んでいる時空にあるときが、人生の至福
の一刻であると思うから。