今週、年上の古い知人であるSさんが先月亡くなったことを知った。
Sさんとは、私が昔勤めていた会社の上司だった人である。
今年遅れて届いた年賀状に、走り書きで末期のガンだと記されていた。
Sさんの具合は今年前半の気掛かりだったのだが、
私は、どうしてか無気力感(鬱病?)が強く、
見舞いのハガキ一枚さえ送らないまま、ぼーっと過ごしてしまった。
こんなブログに、欠礼の詫び言を記しても、詮無いことだが、
Sさん、お便りも出来ず、申し訳ありませんでした。
あなたと一緒だった人生の時間を懐かしくも、ありがたくも感じています。
ご冥福を祈っています。(いつかまた、あの世で会いましょう。)
Sさんは遠方の方であり、日常やりとりの付き合いもないので、どうし
て彼の死去を知ったかと言えば、インターネットでだった。
Sさんは、出身大学OBの野球チームに所属しており、その方面の方が
ネットに訃報記事を載せており、それが人名検索でヒットしたという
ものだった。
Sさんのように、退職後も何らかの団体や組織に属していれば、ネット
に訃報記事が出たりで、消息が知れるが、私のような根無し草では、
せいぜい、ブログが更新されない=死んでるかも、という程度だ。
ヒトに惜しまれる程の人間ではないので、ひっそり死ぬのが好いと
思っている。
私は50代前半の年齢である。
これからはヒトの死というものに、多く関わらざるを得ない年代であろ
う。自分自身にも、死一般ではなく、生命体としての「寿命としての死」
という想いが、少しは身近に感じられるようになっている。
私も若い頃には、自殺の観念に何度か囚われたことがあるが、
誰でも辛いことがあっても、50年は生きてみて欲しいと思う。
人間の体は、50年は生きられる設計になっているという説を聞いた
ことがある。
その後は余生、余禄、おまけの人生である。
おまけとは「御負け」と書くそうである。
もはや人生の勝ち負けとは無縁の、
誰が生きても「御負け」の残り時間なのである。
生きていても好いし、死んでも好い、生死を対等に含んだ、彼岸に近
接した時間の始まりなのだと思う。
Sさんとは、私が昔勤めていた会社の上司だった人である。
今年遅れて届いた年賀状に、走り書きで末期のガンだと記されていた。
Sさんの具合は今年前半の気掛かりだったのだが、
私は、どうしてか無気力感(鬱病?)が強く、
見舞いのハガキ一枚さえ送らないまま、ぼーっと過ごしてしまった。
こんなブログに、欠礼の詫び言を記しても、詮無いことだが、
Sさん、お便りも出来ず、申し訳ありませんでした。
あなたと一緒だった人生の時間を懐かしくも、ありがたくも感じています。
ご冥福を祈っています。(いつかまた、あの世で会いましょう。)
Sさんは遠方の方であり、日常やりとりの付き合いもないので、どうし
て彼の死去を知ったかと言えば、インターネットでだった。
Sさんは、出身大学OBの野球チームに所属しており、その方面の方が
ネットに訃報記事を載せており、それが人名検索でヒットしたという
ものだった。
Sさんのように、退職後も何らかの団体や組織に属していれば、ネット
に訃報記事が出たりで、消息が知れるが、私のような根無し草では、
せいぜい、ブログが更新されない=死んでるかも、という程度だ。
ヒトに惜しまれる程の人間ではないので、ひっそり死ぬのが好いと
思っている。
私は50代前半の年齢である。
これからはヒトの死というものに、多く関わらざるを得ない年代であろ
う。自分自身にも、死一般ではなく、生命体としての「寿命としての死」
という想いが、少しは身近に感じられるようになっている。
私も若い頃には、自殺の観念に何度か囚われたことがあるが、
誰でも辛いことがあっても、50年は生きてみて欲しいと思う。
人間の体は、50年は生きられる設計になっているという説を聞いた
ことがある。
その後は余生、余禄、おまけの人生である。
おまけとは「御負け」と書くそうである。
もはや人生の勝ち負けとは無縁の、
誰が生きても「御負け」の残り時間なのである。
生きていても好いし、死んでも好い、生死を対等に含んだ、彼岸に近
接した時間の始まりなのだと思う。