俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

尿管結石

2013-04-05 09:29:20 | Weblog
 尿管結石という病気がある。この病気は内臓の病気としては2番目に痛いと言われている。一番痛いのは急性膵炎だそうだ。
 内臓には痛覚が無い。だから手術では内臓に対して麻酔を使わない。内臓に痛覚が無いのは痛みを感じても対処できないからだろう。皮膚や骨が傷付いた場合、そこを労ることによって悪化を防ぐことができるが内臓を労ることは難しい。肺に傷が付いても呼吸をやめる訳には行かないからだ。
 内臓には痛覚が無いから尿管結石や腎臓結石ではとんでもない場所に症状が現れる。なぜか脇腹が痛むのだ。高校生の時にこの病を患った。脇腹に激痛があり近所の外科医に行って湿布薬を貰ったが一向に痛みが治まらない。その後尿管結石だと分かった。私が対症療法を目の敵にするのはこの経験が少なからず影響しているのかも知れない。痛む場所に対する対症療法が全く役に立たない典型的な病気だからだ。
 他の対症療法も多かれ少なかれ、尿管結石の患者に湿布薬を処方するのと同じ愚を犯している。例えば血圧が高い人には降圧剤を処方する。これは湿布薬のようなものだ。何らかの原因があるから血圧が高くなっているのであり、原因を放置したままで結果である血圧だけを下げても全く治療には繋がらない。これで治ると信じるのは阿呆だけだ。
 尿管結石には予防方法がある。水分を多く摂ることだ。尿の量が増えればカルシュウムなどが結晶化しにくくなる。これは原因が分かっているから予防もできるということだ。原因が分からなければ予防も治療もできる筈が無い。治療は原因に対する対処であるべきだ。

男女の違い

2013-04-05 09:02:27 | Weblog
 私が子供の頃は、男女に生まれ付きの違いは無い、というイデオロギーが罷り通っていた。生まれ付きの違いを認めることは差別だ、という偏見だ。理屈としてはこういうことだ。「人は平等であるべきだ。そのためには男女の違いなどあってはならない。」戦前の男尊女卑を否定するためとは言え、イデオロギーに基くデタラメな理屈だ。当為が事実を否定しているのだから明らかに論理的に誤っている。しかし恥ずかしながら私も洗脳されていた。
 この間違いに気付いたのは大学生の時だ。非常に賢い同級生に出会った。しかし彼女の思考回路がどうしても理解できなかった。散々考えあぐねた挙句、到達した結論は実に単純なものだった。男と女は異なる生き物だ、ということだ。
 男女の違いを認めることは決して差別ではない。違いを認めずに、質的な違いを量的な違いに還元しようとすることこそ差別を生む。
 例えばダイコンとカボチャとの間には優劣は無い。質的に異なるからだ。これを価格とか栄養価とかいった一元論的な基準で判定した場合にのみ優劣が現れる。最も正当な評価は、ダイコンもカボチャも優れた野菜だ、ということだ。
 男と女は同じ社会にいながら異なった心的世界を生きている。これは動物としての宿命だ。人類は哺乳類なのだからオスとメスの役割が違うのは当然であり、そのことは遺伝子レベルで刷り込まれている。それが無ければ絶滅する。
 かつて「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がベストセラーになったが、私は競争する男・協調する女、が最も根本的な差異だと思っている。当然のことだがこれは優劣を意味しない。
 差別をする人とは、男女それぞれの特有の長所を認めない一元論者だ。違うからこそ相互に惹かれあう。異質だからこそどちらも正しいのであり、質的に異なるものを偏った基準で一元論的に評価することこそ差別を招く。