テレビを見ていたら学者が「可能性が高くなったと考えられる」と発言していた。新聞を読んでいたら「可能性は否定できない」と書かれていた。これらの言葉に意味はあるのだろうか。
例えば三宅島で地震が起こったら東京直下型地震の「可能性が高くなったと考えられる」し、明日東京に隕石が落ちることだって「可能性は否定できない。」どうも可能性という言葉が安易に・無責任に使われ過ぎているようだ。
かつて天気予報で「晴れ時々曇、所により雨」という予報があり、こんな余りにも文学的で無内容で曖昧な表現は否定されて現在の降水確率予報になった。同じように、こんな無責任な放言を追放すべきではないだろうか。これらは無用な危機感を煽るだけだ。前者なら「何%から何%に高まったか」、後者なら「何%の可能性なのか」と突っ込むべきだろう。科学者は評論家ではない。科学的知識に基づいて適切な指針を示すべきだ。責任逃れを最優先する学者など学会から追放すべきだろう。ガリレオ・ガリレイに倣うべきだ。
人は小さな可能性を過大評価する傾向がある。宝くじが当たることやBSEに感染することや明日大地震に遭遇することなどの可能性は殆んど皆無だ。こんな微小な可能性を騒ぎ立てることは迷惑だ。もっと大切なことは幾らでもある。科学を装った無責任な放言をして危機を煽ることを放任すべきではない。
例えば三宅島で地震が起こったら東京直下型地震の「可能性が高くなったと考えられる」し、明日東京に隕石が落ちることだって「可能性は否定できない。」どうも可能性という言葉が安易に・無責任に使われ過ぎているようだ。
かつて天気予報で「晴れ時々曇、所により雨」という予報があり、こんな余りにも文学的で無内容で曖昧な表現は否定されて現在の降水確率予報になった。同じように、こんな無責任な放言を追放すべきではないだろうか。これらは無用な危機感を煽るだけだ。前者なら「何%から何%に高まったか」、後者なら「何%の可能性なのか」と突っ込むべきだろう。科学者は評論家ではない。科学的知識に基づいて適切な指針を示すべきだ。責任逃れを最優先する学者など学会から追放すべきだろう。ガリレオ・ガリレイに倣うべきだ。
人は小さな可能性を過大評価する傾向がある。宝くじが当たることやBSEに感染することや明日大地震に遭遇することなどの可能性は殆んど皆無だ。こんな微小な可能性を騒ぎ立てることは迷惑だ。もっと大切なことは幾らでもある。科学を装った無責任な放言をして危機を煽ることを放任すべきではない。