俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

枠の中

2013-04-16 10:23:27 | Weblog
 行動経済学あるいはゲーム理論の分野で一時期大ブームになった心理実験がある。独裁者ゲームという。これは最終通告ゲームのバリエーションの1つだ。
 最終通告ゲームでは預かった金の分配を通告者役が提案して、被通告者役はその提案を受け入れて金銭を得るか拒絶して両者を無報酬にするかを決める権限を持つ。この拒否権を無くして通告者役が一方的に分配額を決めるのが独裁者ゲームだ。このゲームでは独裁者役の70%が被通告者役に分配し、その平均額は20%程度だそうだ。
 人間の倫理性を信じたがる無邪気な人達はこの結果を喜んだ。人は何のメリットも無くても利益を分かち合えることが証明されたと彼らは考えた。
 ところが捻くれた人はいるもので、独裁者ゲームのルールをこう変えた。「被通告者役に分配しても良いし1ドルを巻き上げても構わない」すると状況は激変した。分配する人は35%に半減し、20%の人は分配しないだけではなく1ドルを巻き上げた。
 この実験が明かしたことは人間の倫理性とは全く関係が無い。人は枠組みの中で考えるということだ。「分配せよ」と言われたら分配するし、「巻き上げても良い」と言われたら巻き上げることも含めて考えるということだ。
 前にも紹介したことがあるが、中国には小学生を対象にしたこんな試験問題がある。
 A君とB君は1m離れている。B君とC君は3m離れている。A君とC君は何m離れているか。
 友人に尋ねたところ「不明」と答えた。これこそ日本の教育の欠陥だ。中国での正解は「2~4m」だ。答えは確固たるものでなければならないとする日本式教育と比べて、可能な限り答えを求めようとする中国式のほうが優れている。
 実社会において正解を特定できることは少ない。その際取るべき姿勢は正解を諦めることではなく「どの範囲に正解があり得るか」を明らかにすることだろう。確固たる答えしか認めないという狭い枠組みに囚われるべきではない。

数値化

2013-04-16 09:44:16 | Weblog
 数値化すれば客観的になると思い込まれ勝ちだが多くは単純化の極みだ。
 私が初めて数値化に憤ったのは小学生の時だ。「リンゴ3個とミカン4個なら合わせて何個か」という問題だった。試験だから出題者の意図に迎合して「7個」と答えたがこんな乱暴な数値化はすべきではない。人が死ぬ時体内の約600兆個の細菌も死ぬが、これを600兆1個の生命が失われたと考えることは馬鹿げている。質の異なるものを単純に数値化すべきではない。
 そもそも「数」という概念には無理がある。これは同じ物が存在するということを前提にしている。同じ物など存在しない。「普通名詞」でさえ実は抽象語だ。ウチの犬はヨソの犬とは違うし、王将の餃子とミンミンの餃子は異なる。同じ1匹だからと言って等価ではないし、王将の餃子6個よりミンミンの餃子8個のほうが量が多い訳ではない。
 数値化とは一元化の極みだ。その個別性を無視してたった1つの指標で評価することだ。
 マスコミは1票の格差を騒ぎ立てるがこの1票の価値は限りなく低い。衆院で4年に1度、参院で3年に1度投票するだけだ。それ以外では「主権」を行使できない。実質上、権力者の奴隷だ。国民は非常に貧弱な選択肢から選ばされる。そしてこの訳の分からない選挙で選ばれた議員はまるで国民から白紙委任を受けたかのように勝手気儘に権力を行使する。国民は決して白紙委任をしたつもりではなくても議員は勝手にそう位置付ける。
 投票は最悪の数値化と言える。国民の意思は票という形で数値化される。個人の意思など全く無視して議席が決まり、更に議席数という数値化に基づいて国の方向性が決められる。二重の数値化によって国民の意思は完全に葬られる。