俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

循環

2013-04-28 09:44:47 | Weblog
 論理学では循環論は間違いとされている。例えば「痩せた女性は美しい」という命題なら、「痩せた女性はスタイルが良い」「スタイルが良ければ美しい」「美しいのは痩せているからだ」という程度の話にしかならない。全く論理として成立しない。
 ところが意味のある循環論もある。所謂デフレスパイラルがその一例だ。国内だけで考えれば、商品が売れない→商品価格の低下→企業業績が悪化→給料が減る・雇用が減る→購買力が低下→商品が売れない、といった具合で延々と悪化へと循環する。この場合、どれが原因でどれが結果なのか定かでない。
 アベノミクスの場合、商品価格の低下に注目した。そして価格低下の原因として通貨量の不足に狙いを定めた。つまり物の価格は需要と供給のバランスによって決まり、金銭の供給量を増やせば物価は上がるということだ。
 実際の経済は国内だけでは完結しないので先ほどとは違ったモデルになる。円の供給増によって通貨のバランスが崩れる。ここでも需要と供給の関係が働き円安・外貨高になる。そして円安は2つの異なった影響を及ぼす。
 1つは輸出産業の業績の好転だ。円安で価格競争力が高まった企業は国内生産を増やすから雇用が拡大して将来的には賃金の上昇も見込めるだろう。また輸出企業の株価の上昇は消費の拡大にも繋がる。
 もう1つは輸入品価格の上昇だ。このことには良い効果も悪い効果もある。良い効果は安い外国製品に奪われていたシェアを国産品が取り戻すということだ。海外旅行から国内旅行への変更もこの一例と言えよう。悪い効果はエネルギーなどの高騰だ。これは漁業・農業を含めた全産業を高コスト化する。当然これは物価の上昇を招く。
 ここまでは因果関係で説明できる。しかしこの後はどうなるか分からない。アベノミクスが成功するかどうかは、これらが雇用の拡大や賃上げへと循環するかどうかに掛かっている。それが実現しなければ不況下での物価上昇という最悪のスタグフレーションを招く。

2013-04-28 09:39:36 | Weblog
 2011年の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」だったが、この言葉はネガティブな意味も併せ持つ。語源は「動物を繋ぎ止めるための綱」であり、切りたくても切れない縁を意味する。人が独立した個人であろうとする時、絆はラーフラ(障碍、束縛)となる。束縛からの解放は同時に絆の喪失でもある。
 現代人は、切れない筈の絆を無理やり切って、切れる縁に変えてしまった。そのために親子においての育児放棄や養老放棄、組織においての労働者の使い捨てといったことが起こっている。
 奇妙な理屈だが、奴隷のほうが自由人よりも厚遇されるということがあり得る。労働者が「社畜」つまり会社の家畜であった時期のほうが今よりも大切にされていた。奴隷や家畜なら所有物つまり財産だからだ。財産だからこそ保全が図られ終身雇用という制度も成り立っていた。現在の労働者は人財でも人材でもなくただの経費だ。
 自動車を考えればこの違いが明白になる。個人が所有する車は大切にされる。傷を付けないように細心の注意が払われ、長く使えるように充分なメインテナンスも施される。レンタカーに対する処遇は全然違う。返却時にバレたりしなければ多少の傷を付けようとも気にしない。所詮はその場限りの利用対象でしかない。
 マルチン・ブーバーの言葉を借りればIch-Du(我ー汝)という全人格的な相互依存関係が失われてIch-Es(我ーそれ)という対物的関係になったということだ。絆という濃密な関係を捨てて縁という淡白な関係を選んだのだから人と人は相互利用の関係となる。
 無縁社会という言葉は間違いだろう。現代人が失ったのは縁ではなくて絆だ。これは自由を得るためには避けられない代償だ。自由と絆は両立し得ない。