俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

選べない

2013-04-07 09:33:17 | Weblog
 マスコミは1票の格差ばかり騒いでいるがもっと大切な問題を忘れていないだろうか。確かに1票の格差など無いほうが良い。しかし有権者が権利を行使できないことはもっと大きな問題だろう。つまり事実上投票権が剥奪されている有権者がいるということだ。
 選択肢が無い選挙区がある。①強過ぎる議員がいる②碌な候補者がいない③選挙協力の犠牲。多分、他にも色々とあるだろう。
 ①強過ぎる議員がいる・・・昔の新潟県なら誰も田中角栄氏には勝てなかった。負け戦と分かっているからまともな対立候補もいない。田中氏に批判的な人は死に票を投じざるを得なかった。
 ②碌な候補者がいない・・・その選挙区にムカデとゴキブリしか立候補していなければどちらにも投票したくない。棄権するしか無い。
 ③選挙協力の犠牲・・・昨年の衆院選挙では大阪などの一部の選挙区で維新の会が公明党支持に回った。維新としては他の選挙区での支援を得るために捨てた選挙区だろうが、そこの住民は他の選挙区では投票できない。党にとってはワン・オブ・ゼムであろうとも住民にとってはオンリーワンだ。維新支持者としては半自民である公明党にも与党民主党にも投票できなかった。
 1票の格差よりも選べない有権者の存在のほうが問題だと思う。自分の選挙区で選択肢の無い人には他の選挙区への投票を認めても良いのではなかろうか。これは選挙区の格差だ。
 もし国会議員が、首長や地方議会議員のように地域の代表なら居住区での人材難と諦めざるを得ない。しかし国の代表なのだから、選挙区ごとの不公平はあるべきではなかろう。

欲求

2013-04-07 09:06:33 | Weblog
 小学校の3年生か4年生の頃のことだ。どういう経緯だったのかは思い出せないが、先生が「行きたくないのに行った場所」を尋ねた。同級生は床屋とか歯医者などを挙げた。私は「便所」と答えて大爆笑を招いた。別に「受け」を狙った訳ではない。大真面目にそう考えたからだ。
 確かに私の答えは異質だ。他の答えはどれも、自分では行きたくないのに親に命じられて行った話だ。私の答えでは親による強制は無い。あくまで自発的な行為だ。他の答えが外因的な強制であるのに対して私の答えは内因的な強制だ。「排泄したい」という欲求と「臭いから行きたくない」という思いが同居している。
 「眠い」や「空腹」は睡眠欲や食欲とされているがこれらは欲求と呼ぶよりも内因的強制だろう。眠りたくない人が沢山いるから違法でありながら覚醒剤が売れ続けているのだろう。
 快適とは欲求が充たされることという定義がある。これに異を唱えたのはソクラテスだ。「体中痒くてボリボリ掻いている人と痒くない人とではどちらが幸福だろうか」と問題提起をした。
 内因的強制から解放されることは決して快適なこととは言えない。単に「不快でなくなる」ということに過ぎない。痒いよりは痒くない状態のほうが好ましい。一方で、内因的強制が無くても快適なものは幾らでもある。例えば良い香りとか快い音楽とか美などが挙げられよう。
 不快からの解放と快適性の獲得とは区別されるべきだろう。空腹からの解放は「何でも良いから食べたい」であり、快適追求は「美味しい物を食べたい」だ。不快でないということと快適とは同義語ではない。