俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

切り傷

2013-10-03 10:19:13 | Weblog
 切り傷に必要な治療は縫合だ。痛み止めで対応すれば傷口からは血が流れ続ける。そんな馬鹿な対応が医療でも社会でも広く行われている。
 医療は大半が対症療法だ。不快な症状を緩和するだけだで治療は行われていない。風邪に対する解熱剤は最悪だ。熱を無理やり下げることによって却って風邪を悪化させている。
 生活習慣病の治療もデタラメだ。何らかの原因があるから血圧が上がっているのに、薬を使って血圧を下げるだけだ。真因は放置される。
 鬱病の治療も酷い。鬱状態を薬で誤魔化すだけだ。鬱の原因となる「何か」は放置される。これでは酒を飲んで憂さ晴らしをしているのと何ら変わらない。これが治療だろうか。
 鬱病に限らず精神病は内因性と外因性がある。内因か外因かさえ無視して症状だけを緩和しても治療に至ることは無かろう。特に外因性なら生活の見直しが急務だろう。原因を無視した対症療法は有害でさえあるだろう。精神疾患の多くは心の切り傷(心的外傷)が原因だ。傷口を放置して鎮痛剤を投与することは狂気の沙汰だ。
 新型鬱病の患者が旅行を楽しむことを非難する人は少なくない。ただのサボリ病だとも言う。しかしこれを医師が奨励しており、転地療法と呼ばれている。環境を変えることによって鬱状態が改善されるからだ。しかし真因が放置されたままなので日常生活に戻れば鬱状態が蘇る。楽しく暮らせば鬱状態から脱出できてもまともな生活ができないのなら全然治療効果など無く一時凌ぎとさえ言えよう。
 こんな事態を招いているのは診療報酬制度の欠陥が原因かも知れない。30分以上の診療は400点で30分未満なら330点だから、5分間の診察で薬を処方したほうが病状を詳しく尋ねて真因に迫るよりも効率良く稼げる。
 治療効果の無い対症療法はあくまでその場凌ぎに過ぎず、治療できる見込みの無い末期患者に対するモルヒネの投与以外は殆んどが不必要なのではないだろうか。

狩猟採集

2013-10-03 09:49:19 | Weblog
 現代日本にも狩猟採集民がいる。漁師の大半がそれであり「あまちゃん」も狩猟採集民、それも魏志倭人伝に記録が残る、日本にとっては有史以前から続く神話的漁法の継承者だ。このことから分かるように狩猟採集は決して過去の生活形態ではない。
 人が野生の子豚を見付けたらどうするだろうか。彼はきっと何とか無傷で捕まえようとするだろう。タイには「豚は太らせてから食え」という諺があるらしいが、この場合は子豚は育ててから食え、ということになる。これが畜産業の起源ではないだろうか。
 漁業でも似たようなことが行われている。鰻や鮪の稚魚が畜養されている。(近大鮪は産卵・孵化も管理下にありこちらは「養殖」と呼ばれる。)なぜ畜養をするのか。成魚が足りないからだ。自然状態では稚魚の大半が成魚に育つまでに死んでしまうから、人間が介入して生存率を高めている。
 畜養をすれば高コストになる。狩猟採集したほうが低コストであるにも関わらず畜養が行われているのは、それでも採算が合うほど成魚が減って希少性が高まっているからだ。
 農業の起源も同じではないだろうか。人が増え過ぎたために狩猟採集では充分な食料を集められなくなった時に初めて、餓えに駆られて農業が始められたのではないだろうか。考古学者の研究によれば、初期の農耕民の栄養レベルは狩猟採集民よりも低かったそうだ。
 フィジー諸島のある島では果物が道端で自生しており、海辺に行けば魚介類が取り放題だという。こんな状況だから誰も働かない。狩猟採集の時代こそ人類の楽園であり、農耕の時代とは楽園から追放されたアダムとイブの末裔に科された惨めで苦しい生活に他ならない。