俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

引き技

2013-10-13 10:01:02 | Weblog
 大相撲のテレビ中継を見ていると解説者は「引いてはいけない」としばしば言う。確かに引いた力士は大半が負けている。しかし「引いたから負けた」という理屈は原因と結果の混同だと思える。
 相撲には投げ技もあるが基本は押し合いだ。相手を土俵の外へ押し出したら勝ちだ。決まり手も大半が寄り切りと押し出しだ。誰もが相手を土俵の外へ出そうとして前進する。
 人間の前進力は後進力よりも遥かに強く早い。多分2倍以上だろう。押すほうが引くよりも強いのになぜ引くのだろうか。理由は単純だ、押し負けるからだ。
 両者が正面から向き合って押し合えば、力の強いほうが押し勝って力の弱い方は押し込まれることになる。この時点で勝負は半分以上決まったようなものだ。押し負けたほうはズルズルと下がるしか無い。だから「引いたから負けた」のではなく「押し合いで負けたから引いた」のであり、引くことは結果であって原因ではない。
 同様に議論でも押したほうが優勢になり勝ちだ。受身に立ったほうが分が悪い。これは攻撃的なほうが有利になるという意味ではない。攻撃する材料があるから攻撃できるのであって、攻撃される材料を持つ側はたとえ不本意であろうとも受身に回らざるを得ない。これを攻撃したほうが有利になると勘違いをして、変な因縁を付けるヤクザ者やヤクザ国家、あるいはその因縁に対して弱腰な者はみずほ銀行や某国政府などと同様、軽蔑されることを免れ得ない。

入試改革

2013-10-13 09:35:39 | Weblog
 大学入試は見直されるたびに変な方向へと向かうようだ。政府の教育再生実行会議は面接などによる人物評価を重視する大学に対して補助金などで財政支援する方針だそうだ。金の力で教育を歪めようとするのだろうか。
 ペーパーテストは公平だ。名前ではなく受験番号に基いて採点されるので不正の入り込む余地は殆んど無い。一方、面接は極めて主観的だ。親の社会的地位が高いだけで何点かは嵩上げされるだろうし、総合評価という隠れ蓑が使われるので外国籍であることとか顔が悪いとかいったとんでもない差別や偏見であろうとも得点に反映され得る。
 そもそも大学に正しく人物評価をできる人がどれほどいるのだろうか。面接試験の前に面接官の資質を審査する必要がある。
 面接による採点には他にも大きな欠陥がある。極端な採点をする人、つまり良いか悪いか、白か黒かで判定する偏狭な人が実質的に決定権を持ち得るからだ。仮に面接官が3人で、その内2人が10点満点で6点か7点ばかりを付けたとする。もう一人が0点と10点しか付けなければこの人が10点を付けた受験生しか合格できない。
 昨年12月24日付けの朝日新聞の記事によると、秋田大学の医学部の入試でペーパーテストで9割以上を取りながら面接点が0点だったために不合格にされた女子受験生がいるそうだ。面接は密室で行われるのでこの受験生がどんな応答をしたのかは当事者以外には分からないが、錯乱して意味不明な発言でも連発しない限り、0点は無かろう。このように面接は作為の働く余地があり過ぎる。公正な入試でなければ受験生は努力のし甲斐が無い。
 下村文科大臣は「暗記・記憶中心の入試を2回も科す必要はない」と言う。しかしそれは暗記・記憶力だけで解けるような問題しか作れない大学が悪いのであって、受験生の資質のせいではない。理解力・応用力を問う試験問題を大学に作らせようとせずに、阿弥陀籤のような制度で合否を決められては受験生は堪ったものではない。これはあのゆとり教育にも匹敵する愚策だ。