俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

安心

2013-10-25 10:10:59 | Weblog
 10歳ぐらいの頃に被毒妄想を患ったことがある。何が原因になったのか思い出せないが、食卓上の食べ物を一品一品「これを食べてもどうもない?(「大丈夫か?」の方言)」と尋ねて母からこっぴどく叱られたものだ。
 今でも強迫神経症的傾向が残っており、感情だけで判断するととんでもない失敗をしてあとで悔やむことになる。この欠陥を克服するために論理学や確率的思考法などを身に付けざるを得なかったのだが、それでも3つのことに命の危険を感じている。剃刀と飛行機と自転車だ。
 理髪店で咽を剃られるのが大嫌いだった。もし今地震が起これば咽を切られると思って冷や汗を流したものだった。今では髭剃りの無い理髪店を使っているし、自分での髭剃りには電気シェーバーと安全剃刀以外は使わない。
 可能性が低いことが分かっていても飛行機は怖い。事故の大半が離着陸時に起こることを知っているから乗り継ぎは大嫌いだ。死亡する確率が2倍になるからだ。
 自転車も怖い。まだ事故を起こしたことは無いが乗る度に、今日こそ事故に遭うと本気で考える。大阪在住時には安全この上ない電車ばかり利用していたからだろうか。実際の話、自転車の危険性は電車の1万倍以上だろう。
 これらは主観的な危険感覚だ。咽を剃られることが怖くない人も飛行機が平気な人も自転車を危険と思わない人も皆、正常だ。では私が異常なのだろうか。そうとも言えまい。何を怖いと感じるかは個人の勝手だ。饅頭が怖いと主張する権利もある。
 迷惑なのは主観的な価値観を絶対視して他人にまで強制しようとする人だ。合成保存料が怖いのなら自分がそれを買わなければ良いのであって保存料禁止などと訴えるべきではない。事勿れ主義の役人がこれに同調して合成保存料を禁止したら食中毒は百倍ぐらいに増えるだろう。
 安全に客観的な基準を設けることは可能だが、安心は主観的なものであり社会に対して要求すべきことではない。

リサイクル

2013-10-25 09:36:00 | Weblog
 リサイクルは決して好ましいことではない。資源保護の方策はリデュース(削減)・リユース(再利用)・リサイクル(再生)の順であり、リサイクルは最後の手段に過ぎない。それどころかリサイクルできるという言い訳があるために、最も重要なリデュースが軽視されているのではないかとさえ思っている。
 リユースは必ずしも安全ではない。ビール瓶などがリユースされているが、これがビールの容器として使った瓶のリユースなら問題は無い。工場で殺菌・消毒・洗浄をすれば再利用しても構わない。問題なのはビール以外を収容した容器だ。農薬などの薬品や放射能汚染水の保管に使われた瓶までがリユースされている恐れがある。空瓶の使用履歴までチェックされている訳ではない。
 リサイクルの代表例は紙だ。再生紙が藁半紙や新聞紙に使われるのなら余り問題は無い。駄目なのは印刷用紙として使うことだ。印刷用紙に使われる再生紙は塩素などを使って漂白されている。これによる環境破壊は森林伐採よりも重大だ。むしろ国内で放置されている森林から間伐したほうがずっと良い。放置された森林では木が茂り過ぎて新しい樹木が育てないほどに酷い「自然状態」になっているからだ。
 リサイクルの優等生はアルミ缶だ。アルミ缶はゴミではなく資源として有償で取引されるほど価値がある。アルミ缶のリサイクルが有効なのはアルミ精錬には大量の電気が必要であり、日本では電気代が高過ぎるので精錬するよりもリサイクルしたほうが低コストになるからだ。
 但し日本にも1ヵ所だけだがアルミ精錬工場がある。日本軽金属㈱の蒲原工場だ。ここでは自家用の水力発電を使って低コストな電気を得ている。しかし私はこの工場の存続に関して大きな危惧を抱いている。単純に企業収益だけを考えれば、国による電力買取制度を利用して電力を売り、工場を海外に移転したほうが得だからだ。そんなことになれば産業の空洞化が一層進む。農家に対する戸別所得補償のようなバラ撒きなどやめて、こんな工場こそ国が支援すべきなのではないだろうか。