西洋人における水産食の禁忌は旧約聖書に基づいている。「レビ記」などに記されている「水中にいてヒレとウロコの無いものを食べてはならない」が基準になっている。旧約聖書に忠実なユダヤ人は海老や貝さえ食べない。
キリスト教徒の基準はもう少し緩やかだ。海老や貝は殆んどの人が食べているし、ギリシアやイタリアなどではタコもイカも食べる。ギリシア文明もローマ文明もキリスト教よりも古く、キリスト教が偏見をバラ撒く前に食文化が成立していたからだ。
海産物が食文化に組み込まれていなかった内陸部のキリスト教徒はタコやイカを食べない。鯨に至っては未だ嘗て食文化に入ったこともない。地中海に鯨はいなかったのだろう。彼らにとって鯨食とは犬や猫を食べるような野蛮な行為と思えるのだろう。
私自身は犬や猫を食べたいとは思わないが、それを食べる人を非難しようと思わない。趣味の押し付けは傲慢であり「させない権利」があるとは思えない。ヒレとウロコの無い水産物を食べないことは彼らの自由ではあるが、キリスト教徒ではない私が旧約聖書の基準に従わねばならないとは考えられない。
鯨は鰻とは違って絶滅の危機に瀕している訳ではない。確かに大型の鯨の数は減っているようだがそれは何とも皮肉なことに捕獲制限が原因だ。かつてアメリカが鯨油を取るために乱獲していた時代以上に生態系が壊されてしまったのは、小型の鯨が増え過ぎたために同じ餌に頼る大型鯨の食物が足りなくなったからだ。
生物の絶滅は厭うべきだ。何としても避けたいと思う。それは連綿と受け継がれた生命に対する否定だからだ。
個々の生命体は必ず死ぬ。しかし子孫へと受け継がれることによって系統樹あるいはDNAとしての生命は不死だ。絶滅とは原始生命からの命の連鎖の破壊であり、その先祖が生存のために行った闘争の全否定だ。生き継がれた不死者を殺すというとんでもない罪悪だ。
今更、鯨食を日本の食文化と主張してもキリスト教徒は理解しようとしない。むしろ大型の鯨を守るために小型の鯨を捕獲すべきだと主張したほうが彼らに対する説得力があるだろう。
キリスト教徒の基準はもう少し緩やかだ。海老や貝は殆んどの人が食べているし、ギリシアやイタリアなどではタコもイカも食べる。ギリシア文明もローマ文明もキリスト教よりも古く、キリスト教が偏見をバラ撒く前に食文化が成立していたからだ。
海産物が食文化に組み込まれていなかった内陸部のキリスト教徒はタコやイカを食べない。鯨に至っては未だ嘗て食文化に入ったこともない。地中海に鯨はいなかったのだろう。彼らにとって鯨食とは犬や猫を食べるような野蛮な行為と思えるのだろう。
私自身は犬や猫を食べたいとは思わないが、それを食べる人を非難しようと思わない。趣味の押し付けは傲慢であり「させない権利」があるとは思えない。ヒレとウロコの無い水産物を食べないことは彼らの自由ではあるが、キリスト教徒ではない私が旧約聖書の基準に従わねばならないとは考えられない。
鯨は鰻とは違って絶滅の危機に瀕している訳ではない。確かに大型の鯨の数は減っているようだがそれは何とも皮肉なことに捕獲制限が原因だ。かつてアメリカが鯨油を取るために乱獲していた時代以上に生態系が壊されてしまったのは、小型の鯨が増え過ぎたために同じ餌に頼る大型鯨の食物が足りなくなったからだ。
生物の絶滅は厭うべきだ。何としても避けたいと思う。それは連綿と受け継がれた生命に対する否定だからだ。
個々の生命体は必ず死ぬ。しかし子孫へと受け継がれることによって系統樹あるいはDNAとしての生命は不死だ。絶滅とは原始生命からの命の連鎖の破壊であり、その先祖が生存のために行った闘争の全否定だ。生き継がれた不死者を殺すというとんでもない罪悪だ。
今更、鯨食を日本の食文化と主張してもキリスト教徒は理解しようとしない。むしろ大型の鯨を守るために小型の鯨を捕獲すべきだと主張したほうが彼らに対する説得力があるだろう。