俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

食文化

2014-04-02 10:14:55 | Weblog
 西洋人における水産食の禁忌は旧約聖書に基づいている。「レビ記」などに記されている「水中にいてヒレとウロコの無いものを食べてはならない」が基準になっている。旧約聖書に忠実なユダヤ人は海老や貝さえ食べない。
 キリスト教徒の基準はもう少し緩やかだ。海老や貝は殆んどの人が食べているし、ギリシアやイタリアなどではタコもイカも食べる。ギリシア文明もローマ文明もキリスト教よりも古く、キリスト教が偏見をバラ撒く前に食文化が成立していたからだ。
 海産物が食文化に組み込まれていなかった内陸部のキリスト教徒はタコやイカを食べない。鯨に至っては未だ嘗て食文化に入ったこともない。地中海に鯨はいなかったのだろう。彼らにとって鯨食とは犬や猫を食べるような野蛮な行為と思えるのだろう。
 私自身は犬や猫を食べたいとは思わないが、それを食べる人を非難しようと思わない。趣味の押し付けは傲慢であり「させない権利」があるとは思えない。ヒレとウロコの無い水産物を食べないことは彼らの自由ではあるが、キリスト教徒ではない私が旧約聖書の基準に従わねばならないとは考えられない。
 鯨は鰻とは違って絶滅の危機に瀕している訳ではない。確かに大型の鯨の数は減っているようだがそれは何とも皮肉なことに捕獲制限が原因だ。かつてアメリカが鯨油を取るために乱獲していた時代以上に生態系が壊されてしまったのは、小型の鯨が増え過ぎたために同じ餌に頼る大型鯨の食物が足りなくなったからだ。
 生物の絶滅は厭うべきだ。何としても避けたいと思う。それは連綿と受け継がれた生命に対する否定だからだ。
 個々の生命体は必ず死ぬ。しかし子孫へと受け継がれることによって系統樹あるいはDNAとしての生命は不死だ。絶滅とは原始生命からの命の連鎖の破壊であり、その先祖が生存のために行った闘争の全否定だ。生き継がれた不死者を殺すというとんでもない罪悪だ。
 今更、鯨食を日本の食文化と主張してもキリスト教徒は理解しようとしない。むしろ大型の鯨を守るために小型の鯨を捕獲すべきだと主張したほうが彼らに対する説得力があるだろう。

補正

2014-04-02 09:36:55 | Weblog
 眼鏡によって目が治療されると考える人はいない。裸眼での視力が回復してこそ治療と言えるのであって、これは補正に過ぎない。寄せて上げる補正ブラと同じであって外せば元に戻る。一時凌ぎに過ぎない。
 多くの医療がこれと同じレベルであることは嘆かわしい。治療をせずに対症療法を施すだけであるにも拘わらず、それが医療であると医師も患者も思い込んでいる。多くの生活習慣病は、糖尿病であれ高脂血症であれ、治療ではなく補正だけが行われている。これらは本当に不治の病なのだろうか。これらを治せないあるいは治そうとしないことは現代医療の最大の欠陥だろう。
 生物には自然治癒力が備わっている。そのために一時凌ぎをしている内に勝手に治ってしまうことが少なくない。だから誤った治療法がなかなか見直されない。僅か100年前に虫垂炎に対してどんな治療が行われていたかご存知だろうか?下剤とアヘンというとんでもない薬による治療が行われていた。それでも死亡率は6割程度だったらしいから、4割は自然治癒したということだろう。
 内科だけではなく最近では精神科医も同じ間違いを犯しつつある。多くが心療内科と名乗っているのだから、内科医の悪い病気が精神科医にも感染したのだろう。
 鬱病は薬では治らない。抗鬱剤は眼鏡や補正ブラと同様、一時凌ぎに過ぎない。治療するためには原因に対処する必要がある。結果である症状を緩和するだけでは治療にはならない。勿論、原因に対処しても治療できるとは限らない。仕事や家庭が原因であればそれは医師の手に負える問題ではなくなる。しかし真因を放置したままでは絶対に治療できない。医療の大半が対症療法に過ぎないことを憂慮すべきだろう。そしてこのことが数千億円規模の厖大な無駄遣いになっている。