俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

科学と金

2014-04-22 10:20:24 | Weblog
 かつては、科学の敵は宗教だった。地動説のガリレオ・ガリレイや進化論のダーウィンは宗教による弾圧と闘うことを余儀なくされた。宗教の権威が衰えたためにこの圧力は弱まったが、別の敵が科学を妨害する。それは金だ。
 理化学研究所はなぜあんな拙速な対応をしたのか私には理解できなかった。充分な聞き取り調査もせずに捏造・改竄と決め付けるからには余程確かな証拠を掴んだのかと思ったが、どうもそうではないようだ。このトカゲの尻尾切りが科学をスキャンダルにしてしまった。
 理研が決着を急いだのはどうやら金が原因だったようだ。巨額の公費が投じられる特定国立研究開発法人の認定が目前だったので、鼻面にニンジンをぶら下げられた馬のように焦ったようだ。
 理研の役員には文部科学省からの出向者が名を連ねている。公務員は予算に過敏だ。予算を分捕ることこそ最も重要な仕事と考えている。良い仕事をすることよりもまず予算を取ること、つまり初めに金ありきが彼らの信念だ。金銭に淡白な科学者の尻を叩いて分捕合戦を仕掛けさせたのは出向者だろう。
 国家予算は昔ほど潤沢ではない。大量の赤字国債の問題もあるから、iPS細胞などの成果の見込める研究に重点的に配分されている。これを横取りしようと企んだのは出向者だろう。見栄えのする若い女性をヒロインに仕立て上げてマスコミが飛び付きそうな小細工をして話題作りに励んだ。ところが誤算が生じた。研究内容に疑いの目が向けられ始めた。そうなれば落ちた偶像に用は無い。早目に切り捨てて次の神輿を担いだほうが得策だ。すると梯子を外された形の小保方博士も黙っていられない。学者生命を賭けてこの理不尽な仕打ちに抵抗するしか無い。こうして法的決着も辞さない前代未聞の科学スキャンダルになってしまった。
 多くの科学者は純朴だ。ノーベル賞受賞者でもある島津製作所の田中耕一シニアフェローのように、地位や金銭に翻弄されずに、好きな研究に没頭していたいと考える人が少なくない。金の亡者共にこんな科学者の楽園を掻き回されたくないものだ。

一期一会

2014-04-22 09:44:38 | Weblog
 埼玉県で、女教師が息子の高校の入学式に参列するために、自分が担任である高校の入学式を欠席したそうだ。変な教師はどこにでもいるものだと軽く考えていたが、20日付けの産経新聞の記事を見て驚いた。埼玉県教委に寄せられた意見は、校長らへの批判48件(33%)、教員への批判34件(23%)、教員への理解65件(44%)とのことだ。日本人は無責任に対してこんなに甘くなったのかと呆れた。2つの問題点に絞って指摘する。
 ①主役と観客・・・入学式の主役は生徒と教師だ。父母の役割は観客に過ぎない。私個人を例にすれば小学校から大学まで入学式と卒業式は4回ずつあったが、親が参列したのは小学校の入学式だけだ。これは登下校の送迎を兼ねていた。それ以外については、勝手に見に来たことはあったかも知れないが不参加だ。親の参列は子供にとってはどうでも良いことだろう。しかし担任の教師は違う、主役の一人だ。この職務を放棄することは無責任だ。これは他所の芝居を見るために舞台を休む俳優や、メジャーリーグの試合のテレビ観戦のために欠場する野球選手のようなものだ。
 ②デメリット総量・・・40人を受け持つ担任教師が一人の息子を優先したことを数で比較しようとは思わない。比較すべきなのは数だけではない、質も考慮すべきだ。40人の葬式よりも親族の葬式を優先することは当然認められる。問題とすべきなのはこのことによる影響だ。第一印象の与える影響は大きい。第一印象が悪ければその後挽回することはかなり難しい。このことによりたった一人にでも決定的な悪印象を与えてしまえば取り返しの付かないことになる。息子の高校の入学式に参列しないだけでヒビが入るほど脆弱な親子関係ではないだろうしその埋め合わせの機会は何度でもあるだろう。しかし新しい生徒との信頼関係はそうではない。このことのために完全に断絶するかも知れない。そんなことまで考慮した上で欠席したのだろうか。この教師は生徒との信頼関係の重要性を理解していない。このことだけでも教師として失格だ。
 常在戦場という言葉がある。これは決して「常に戦え」という意味ではなく「戦場にいるような緊張感を持続せよ」という意味だ。平和ボケした現代の日本人にこんな自覚が困難であれば、せめて一期一会という意識を持って欲しいと思う。
 私は自分をかなり極端な個人主義者だと思っている。だからこそ他者の権利や感情を軽視するエゴイストには強い不快感を持つ。個人主義とは自己の権利を重視するのと同様に他者の権利も重視する思想だ。