俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

過失相殺

2014-04-10 10:19:50 | Weblog
 民法には過失相殺という概念がある。これは素晴らしい考え方であり刑法や憲法あるいは国際法にも導入して貰いたいと思う。
 例えば歩きスマホでぶつかった場合、歩きスマホ側が一方的に悪い訳ではない。多分、相手側も余所見をしていたからぶつかったのだろう。歩きスマホ側には客観的な落ち度があり、相手側の落ち度は曖昧だ。これに白黒を付けようとするなら歩きスマホ側が悪いということになる。こんな時に便利なのが過失相殺だ。歩きスマホ側の落ち度を8割、相手側を2割とする。言わば喧嘩両成敗だ。
 暴力を肯定する気は無いが、暴力に訴えた側が一方的に悪いとする風潮にも賛同できない。シカトなどの非暴力のいじめに対して暴力を使った場合、暴力を使った側が一方的に悪いとされる。悪者にされないためには被害者になるしか無い。だから自殺という手段に訴えて究極の被害者になる。
 刑事裁判でも多くの被害者は決して無辜ではない。借金を返さないなど様々な悪事を重ねていることが少なくない。積もり積もった怒りをぶつけた加害者を一方的に悪人とすることには納得できない。過失相殺に相当する概念があるべきだろう。「情状酌量」が近い意味で使われるがこれは裁判官による温情判決だ。もっと積極的に被害者側における違法行為を考慮すべきだろう。
 中国は尖閣諸島で日本を挑発する。国際法では挑発に乗せられたほうが悪いとされるが、度重なる挑発に問題は無いのだろうか。アメリカによる挑発に乗せられて開戦した大日本帝国は愚かな選択をしたが、挑発した側に全く責任が無いとは思えない。
 原因と結果は一対一対応するものではない。小さな悪事を積み重ねれば「点滴石を穿つ」ということにもなりかねない。耐えかねて報復する者だけを断罪するのは片手落ちだ。
 昔から「泥棒にも三分の道理」と言うように加害者が100%悪いとは限らない。通り魔事件は論外だが、刑事事件で被害者を善、加害者を悪と決め付ける善悪二分論には疑問を感じざるを得ない。悪事を重ねたからこそ被害者になった人は決して少なくない。

リケジョ(2)

2014-04-10 09:47:14 | Weblog
 昨日(9日)小保方晴子博士による記者会見が行われた。悪意がある質問にも誠実に答えようとする姿勢には好感が持てた。実は私はこの記者会見に危惧を抱いていた。泣き出してしまって充分な質疑応答ができないのではないかと心配していた。しかしこれは本当に失礼な思い込みだった。博士は感情的にはならず淡々と応答していた。流石は一流の科学者であり「強い女(ひと)」だ。
 博士の立場は微妙だ。理化学研究所は「小保方個人による捏造・改竄」と発表したその日に博士との雇用契約を更新していた。この理研の行動が全然理解できなかった。捏造・改竄する研究者となぜ契約更新したのか全く分からなかった。研究できる状態ではないのだから契約保留にしておけば充分だろう。わざわざ更新したのは発言を封じるためだったのではないかと私は勘繰っている。
 もしクビになっていれば何の遠慮も無く反論できる。しかし組織内部の人間でありしかもこの職場で働き続けることを希望しているのだから遠慮せざるを得ない。下手に理研を攻撃し過ぎれば今後働きにくくなる。だから理研攻撃を極力避けてあくまで研究内容の釈明に終始せざるを得なかった。
 科学は宗教とは違って、信じる・信じないではなく実証できるかできないかで決まる。しかし生物学の証明は難しい。個体差があるからだ。水素と酸素を化合させれば水ができるような単純な反応ではない。ある薬が人によって毒にも薬にもなるように生物は複雑だ。物理学の実験のように簡単には再現できないという弱点がある。
 今後、STAP細胞の存在が証明されるかどうかは分からない。しかし博士が誠実な人であることはよく分かった。私は研究者には謙虚さと自信という相矛盾する資質が必要だと思っている。他者による批判を受け入れる謙虚さと成果に対する自信だ。博士にはこの両者が備わっているようだ。
 職場からもマスコミからもあれだけ袋叩きに会いながら逃げも隠れもしない勇気にも敬服した。私なら耐えられない。その一方で、説明責任を果たさずに逃げと隠れに徹して挙句の果てに「妻の口座」という新技の言い逃れを使った渡辺某には博士の爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。彼は逃げ回っている間、只管、言い逃れ方の研究をしていたのだろう。個人に責任を押し付けて責任逃れを図る理研の幹部も含めて卑怯な男ばかりが目立つ今日この頃だ。