俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

分配

2014-06-12 10:12:01 | Weblog
 給食のおかずの分け方は色々考えられる。
 ①最初から全員に同じ量を分配する。
 ②少しだけ少ない目に分配してもっと欲しい人には追加を認める。
 ③ビュッフェ(バイキング)形式のように各自が自由に好きなだけ取る。
 ④強い者が先に取って残りをみんなで分ける。
 多分③や④に賛成する人は殆んどいないと思うから①と②を比較しよう。①を選ぶ人も少なくないと思うが、私は②のほうが断然良いと思う。人には好き嫌いがあり適量もそれぞれ異なるから、全員に同じ量を配れば多過ぎる人も少な過ぎる人も現れる。②のほうが却って「公平」だと思う。
 資産についても同じように考えてはどうだろうか。まず少量を平等に分ける。もっと欲しい人はもっと働くか重い責任を担う。企業の給料もこの考えに基づいている。まず基本給があって時間外手当や役職給がそれに付加される。日本やヨーロッパの制度は概ねこれに近い。もっと欲しければもっと働けということだ。
 共産主義は①に近い。分配された物を市民同士で融通し合えれば充分豊かな社会になり得るだろうが、社会全体の資源が充分に豊かでなければ皆が等しく貧乏になる。
 アメリカは③だ。自由と権利を優先すればこうなる。しかし資産が有り余るほど豊かでなければ猛烈な競争社会になる。
 現代の中国は最悪の④だ。権力者が真っ先に資産を奪って残りを庶民が奪い合う。だからジニ係数が世界一高い。まるで専制君主が支配する古代社会のようなものだ。歴史から学ばないこんな社会では人民は不幸になる。
 日本を③の競争社会に変えるべきだと考える人もいるが、心優しき日本人にはお互いの権利を尊重する②が一番向いていると思う。日本人には競争社会よりも協調社会のほうが相応しい。

育児

2014-06-12 09:43:34 | Weblog
 専業主夫は特定の条件でのみ可能だ。それは小さな子供がいないということだ。小さな子供がいないという条件であれば男女の役割分担の逆転はあり得る。育児以外の家事においては男女の能力差は殆んど無かろう。計画的で力が強く生理日の不安定さが無いのだから男性のほうが適しているかも知れない。
 しかし育児能力は決定的に異なる。まず男には授乳能力が無い。肌触りも男が劣る。剛毛の堅い肌と柔毛の柔らかい肌とどちらが乳幼児にとって心地良いかは比較する必要も無かろう。
 これら以上に差が大きいのが非論理でのコミュニケーション力だ。赤ん坊が泣き叫んだ時、父親はどうしたら良いのか分からず狼狽えるだけだが母親なら大抵、正しく対応できる。
 これは脳の特性と大いに関係があるようだ。元々、男脳は競争的で女脳は協調的だ。育児においてはこの違いが更に拡大する。女性は妊娠中に情緒不安定になり易いそうだ。この不安定感を見事に描いたのが「ローズマリーの赤ちゃん」という恐怖小説・映画だった。情緒不安定になるのは実は乳児とのコミュニケーションのための準備だという説がある。乳児との非論理的コミュニケーションを円滑にするためには非論理の世界を理解せねばならない。女脳が妊娠中から既にその準備を進めているのであれば乳児の意思を正しく理解できるだろう。男には真似のできない芸当だ。
 私が、こと育児に関しては女性の役割を殊更、重視するのは、女性の能力のほうが圧倒的に優れているからだ。育児を女性の義務と考えるからではなく、適性の差だ。男性のほうが重い荷物を運ぶのに適しているように、育児においては明確に女性のほうが高い能力を備えている。多分、児童教育においても同様だろう。
 私は、男女の違いを認めようとしないフェミニストとは全く対極の立場に立つ。男女の能力は明らかに異なっておりまるで別の動物のようだ。その違いを認め合うことによって社会は成立している。平等(=同質化)にするために事実を歪めるのではなくて、お互いの違いを認めてそれを長所として尊重し合うことこそ重要だ。それぞれの特性を否定するのではなく特性を尊重し合ってこそ正しい男女平等が成立する。