俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ペット

2014-06-25 10:10:23 | Weblog
 中国や韓国で犬肉食が非難されている。これは欧米による批判ではなく国内の愛犬家による非難だ。4本足であれば机と椅子以外、2本足であれば親以外は食べるとまで言われた中国で、これは大きな変化だ。しかしこれは家畜は食べて良いがペットは食べてはならないというよく分からない理屈だ。
 家畜とペットはどう違うのだろうか。西洋では家畜は道具でペットは仲間という位置付けらしい。日本の畜産農家では家畜も家族の一員として扱われ勝ちでありこの区分は理解しにくい。
 多分、ペットと家畜の最大の違いは個性を認めるかどうかということではないだろうか。牛・豚・羊などであれば従順であることが価値であり、ペットであれば時には従順ではなく我儘であったりふて腐れたりすることが個性として認められる。つまりペットであれば個性が認められ家畜であれば無条件に従順さが求められる。個性を認められる動物は肉ではなく個体として尊重されるということだろうか。
 ここで奇妙な類似性に気付く。教師と生徒の関係だ。生徒を個人として扱わず画一化しようとする教師に我々は強く反発する。これはペット以下の家畜として扱われるからではないだろうか。こんな教師にとって生徒は従順な家畜であるべきであって個性の発揮など身分不相応なことだ。
 人と人の関係は大別すれば人的関係と道具的関係に分けられる。マルチン・ブーバーの術語を使えば前者はIch-Duであり後者はIch-Esの関係だ。道具として扱われた人は道具として扱い返し、人格(あるいは「実存」)として扱われた人は相手の人格を尊重する。利害による繋がりは他人の関係であり、利害を超えた関係は家族的関係とも言われる。
 日本人は家畜に対しても道具的関係に留まることは難しくたとえ家畜であっても名前で呼ぶ。ペットか家畜かという区分よりも自分が手塩に掛けた動物かどうかのほうが我々には分かり易いのではないだろうか。つまり自分が育てた動物は食べるべきではないということだ。ある部族では、自分が育てた野菜でさえ食べないそうだ。私自身は犬を食べたいとは思わないが、犬はペットだから食べるなという理屈は多数者の価値観の押しつけだと思う。

オスの適性

2014-06-25 09:34:12 | Weblog
 動物には種としての適性以外にオスとしての適性がある。困ったことにはこれは種としての適性と矛盾することが多い。同じ特性が対オスでも対メスでも有利に働くこともあるが、ここでは敢えて対オス・対メスに分けて検証する。
 オスはオス同士の競争で勝たねばならない。縄張りを持つ種であればこのことは特に重要で、大きな体や強い力などが適性となる。ところがこれが種族外淘汰では弱点になり得る。天敵に捕食されるカブト虫は70%がオスで、しかも食べられたオスの角は平均より3%ほど大きいそうだ。対オスの適性が種族外競争では不適性になっている。
 対メスにおいてはもっと酷い。鳥のオスにおいて顕著な派手な外見は明らかに生存競争では不利だ。クジャクにおいてはメスに好まれるために巨大化した尾羽が飛ぶ能力を低下させている。
 鳥のメスは大半がオスよりも地味な外見をして目立たない。だから捕食されにくい。生存競争においてメスはオスよりも有利な形体を備えている。
 オスが個体にとっては不利な特性を持っているのは、所詮、遺伝子の運搬役に過ぎないからだろう。種にとって個体の生命などどうでも良い。より環境に適応できる子孫さえ生まれれば種は徐々に進化しながら存続できる。
 多分、安定した環境であれば変異の少ない個体が繁栄して、不安定な環境下では変異の大きな個体のほうが有利になり得る。「下手な鉄砲も数打てば当たる」という諺のとおりどれかがマグレ当りをする。メスの役割は偶然環境に適応したオスを選ぶことだ。変異はまずオスに現れ、環境に適応した有利な特性が子孫に継承される。メスは自らは危険を冒さずにオスが持っている有利な特性を子孫に伝える。
 オスにおける個体変異はプラスにもマイナスにも働く。マイナスであれば淘汰されプラスの場合だけメスに選ばれて子孫を残す。オスとは惨めな実験動物のような役割だ。