俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

神頼み

2014-06-14 10:12:21 | Weblog
 ランダムに起こることが何らかの意味付けをされることは非常に多い。これが迷信を生む。
 話を分かり易くするために極端な寓話にする。10箇国の歴史を学び、それぞれの生徒は興味を持った国の歴史だけしか覚えなかったとする。ある生徒はフランスとドイツという2箇国の歴史だけしか覚えず、ある生徒は9箇国の歴史を覚えたとする。2つの歴史しか覚えなかった生徒の期待値は20点で9つを覚えた生徒なら90点だ。
 もし必ず異なる国について出題する5問の試験をすればどうなるか。全部覚えた生徒なら毎回100点だがそれ以外の生徒の得点は毎回バラ付く。5箇国の歴史しか覚えなかった生徒であれば0点から100点まであり得る。覚えている国ばかりが出題されれば(俗に言う「ヤマが当たった」条件)100点で、覚えていない国ばかりが出題されれば(「ヤマが外れれば」)0点だ。しかし確率的にはそんなことは殆んど起こらない(10C5=5/10×4/10×3/10×2/10×1/10=120/100000=0.12%)。実際には平均50点で上下にバラ付く。同様に3箇国しか覚えていない生徒なら平均30点でバラ付く。
 この場合、成績が下位の者ほど運不運に左右される。平均30点の生徒が0点を取ったあと「神頼み」をすればどうなるか、多分次の試験では20~40点を取るだろう。これは決してご利益があった訳ではない、本来の得点に戻っただけだ。心理学ではこれを回帰効果と呼ぶがこれがご利益と誤解される。多くの人はドン底の時に神頼みをするから「報われる」ことが多い。
 成績の悪い者ほど得点が不安定で運に左右され易いから彼らは迷信に頼り勝ちになる。余り利巧でない人がご利益宗教にはまり易いのはこんな事情からだろう。

審判

2014-06-14 09:38:53 | Weblog
 昨日(13日)のW杯開幕戦のブラジル対クロアチア戦の審判は日本人3人だった。非常に名誉なことだと思う。公平な判定をするということが世界的に認められたと言って良かろう。
 日本の審判のレベルが高いのは相撲の行司以来の伝統だろう。「物言い」という優れた仕組みがあり、行司は差し違えたら切腹をするという覚悟で脇差を帯刀していると言う。本当に切腹をした行司はいないが、行司=審判が命懸けで取り組むという真摯な姿勢は他に類を見ない。
 しかし日本の審判が常にフェアだったかと言えば必ずしもそうではなかった。プロレスは論外として、かつて今の政治状況のように読売巨人軍が一強多弱だった頃の審判は不公正だった。「長嶋ボール」という言葉もあった。これは長嶋選手が見送った際どい球はボールと判定された。長嶋という権威に審判が屈服していた。他のチームのファンはよくボヤいていたものだ。「こっちは9人で試合をしているのに巨人は10人だ。」つまり審判が巨人に肩入れしていた。
 こんな例外はあるが概して日本の審判のレベルは高い。中立性を守ろうとする意識も高い。やはり行司の伝統が生きているのだろう。
 それと比べて政治意識は何と低いことだろうか。明らかに違憲である自衛隊を合憲としている。ルール遵守という日本人の美徳が憲法においては発揮されていない。
 この国民性にも背くような奇妙な現象はなぜ起こるのだろうか。多分、誤った教育の弊害だろう。高校までの教師は憲法を是々非々としては教えない。まるで不磨の大典であるかのように教える。憲法は無条件に守るべきものであるとして、間違ったルールを改めるという考え方を欠いている。気違いじみたルールであろうとも守れと教える。子供は従順だから教えられたことをそのまま受け入れる。「♪赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた♪」という歌詞のとおりだ。
 しかし憲法を守るということが、国民の安全を守るということと矛盾することは明らかだ。この矛盾を誤魔化すために論理や公正性が否定される。せっかく優れた徳性を備えた日本人が徳を失って違憲状態を公認している。ゲームに対するように憲法に対しても公正であるべきだろう。