俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

贋薬

2014-06-22 10:02:00 | Weblog
 もしアンチエイジングが可能であればそれは真っ先にハゲや白髪を防ぐために使われるだろう。そんな薬を求める人は多く効果もはっきり目に見える。ところが未だそんな薬は無いようだ。ハゲの治療薬があればその効果は目に見える。逆に効かないということも一目瞭然だ。だから贋薬が紛れ込めない。
 巷に溢れている贋薬は効果が確認しにくいからこそ売れている。ご利益宗教と同じトリックだ。誤魔化しの余地があるからこそ生き延びている。信者が不幸に会った時、主に2つの言い訳が可能だ。1つは、ご利益があったから最悪を免れたという理屈だ。たとえ片足を失っても、両足を失わずに済んだという幸運をご利益と見なす。もう1つは信心が足りなかったとして信者に責任転嫁をすることだ。不幸に会った人はその宗教に不信感を持つが、この反論はその不信感を不幸の原因とするのだから効果的だ。
 贋薬もご利益宗教と同じ手口を使う。鬱病を治す筈の薬が全然効かなくても、悪化を防いでいると言い逃れをすればそのまま一生薬漬けにできる。ハゲの治療薬と称していればこんな言い逃れは通用しないだろう。
 コラーゲンのサプリメントの宣伝にはもう呆れるしか無い。コラーゲンの豊富な肌は弾力性が高い、だからプリプリ肌を作るためにコラーゲンを飲めと言う。非科学の極みだ。コラーゲンを飲んでもコラーゲンは増えない。アミノ酸に分解して吸収されるのだから肉などの一般の蛋白質と何ら変わらない。効果の確認が難しいからこそこんな馬鹿げた贋薬が売れるのだろう。もしかしたらプラセボ効果ぐらいならあるかも知れないが、コラーゲン効果の理屈はハゲの人に髪の毛を食べさせようとするようなものだ。毛を食べても頭髪が増えることなどありえないと分かっているから誰もそんなことをしない。コラーゲンを有難がる頭の弱い人は、コラーゲンよりも猿か羊の脳ミソでも食べて少しは脳の機能を高めたほうがずっと良かろう。

不確実

2014-06-22 09:32:09 | Weblog
 確実なことに基づくことは重要だ。しかし確実なものにしか頼れなければどうしようもなく不自由になる。確実なものなど殆んど無いからだ。
 テレビを点けてもそのメリットは不確実だ。碌でもない番組かも知れないし、贔屓のチームが負けて却って不愉快になることもあり得る。それでも見るのは不確実であることが楽しいからだ。結果が分かっている試合を録画で見れば楽しみは半減する。
 恋愛で一番楽しいのは関係が不安定な間だと言う。相手の気持ちが分からないのでドキドキ・ハラハラしている時に気持ちは最も昂る。釣れるまでは夢中になっても、釣ってしまった魚には餌を与えることさえ惜しくなる。
 分からないから面白いのならデカルトの方法は根本的に間違っているのかも知れない。「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」のように確かなことを土台にして積み上げようとすることは最も不自由でつまらない人生を歩むことだ。パスカルは「パンセ」でデカルトを「無益で不確実」と酷評している。
 「2+3=5」のような客観的な事実などどうでも良い。むしろ「2+X=Y」こそ重要だ。Xとは不確定な「私」でありYはその結果だ。周囲に対して働き掛けることによって自分も周囲も変動する。あるいは「X+Y=Z」でも良かろう。不確定な社会に不確定な「私」が働き掛けて未来を作るという構図だ。
 行動は事実に基づくことが望ましい。ところが世の中は分からないことだらけだ。事実が明らかになるまで待っていれば何もできない。行動の基準は確率的に選ばれるべきだろう。
 私はその後の選択肢が豊富なほうを選ぼうと心掛けている。例えば、生きるか死ぬかであれば迷わずに「生きる」を選ぶ。生きるを選べば後から死を選べるが、死を選んでしまえば後から「生きる」を選べないからだ。
 現在、私は独学を続けている。知りたいことは幾らでもある。どんな成果が得られるかはやってみなければ分からない。やってみて失敗だったらやり直せば済むことだ。だからやり直せる範囲で挑戦を続けるつもりだ。未来は不確実だからこそ自由がある。もし確実であれば選択肢つまり自由が無くなってしまう。生きるとは不確実性に対処することだろう。