俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

法治国家

2014-07-01 20:46:02 | Weblog
 法治国家か否か、これは国家の根幹だ。法治国家でなければどんな法律も意味を持たない。権力者が法律を捻じ曲げて勝手な解釈を押し付けるからだ。権力者が法律より上に君臨すれば人治国家になる。
 安倍首相は憲法解釈を改めると言う。しかし「国の交戦権は、これを認めない」という条文をどう曲解しようとも集団的自衛権を認めるという解釈にはなり得ない。こんな解釈が可能であれば19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」であれ21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」であれ解釈次第で骨抜きにできるということだ。「有害な思想であれば言論・出版を禁じることができる」と曲解すればほぼ無条件に言論統制ができる。
 私個人は集団的自衛権は必要だと考えている。しかし集団的自衛権よりも法治国家であることのほうが遥かに重要と考える。権力者の独断専行に歯止めが掛からない無法国家にすべきでないということこそ最優先課題だろう。
 閣議決定によって憲法を無視できるのであれば、閣議決定によって如何なる法律も無視できるということだ。汚職であれ殺人であれ閣議決定によって合法化できるということだ。
 閣議決定をしても直ちにそれが新しいルールになる訳ではない。関係法を改定して国会で承認される必要がある。しかし圧倒的多数の議席を持つ与党は簡単に可決してしまうだろう。
 阻止できるのは司法だけだ。司法は違憲立法審査権を持つからだ。もし司法が安倍政権の暴走を食い止めなければ日本は法治国家ではなくなる。
 トヨタには「誤ったルールは改めねばならない」というスローガンがある。これはルールの軽視ではなく、ルールを重視するからこそ徹底的に正しいルールを追及するという姿勢だ。ルールを無視しても良いということが国の方針になれば日本は無法国家になる。

番狂わせ

2014-07-01 10:28:45 | Weblog
 相撲で下位の力士が上位力士に勝つことを番狂わせというが、サッカーのワールドカップ・ブラジル大会での番狂わせは意外なほど少なかった。大半が6月5日時点のFIFAランキングから見て妥当な結果だ。決勝トーナメントも今日(7月1日)までのところグループリーグ1位のチームが順当に勝ち進んでいる。
 大番狂わせは2つだけだ。ランキング1位のスペインが敗退したことと、「死のグループ」と呼ばれたD組でランキング28位のコスタリカが7・9・10位のチームを抑えて1位になったことだ。他は大半がランキングどおりの妥当な結果だ。
 ランク差5以上での下剋上があったのは2つだけだ。F組で44位のナイジェリアが21位のボスニア・ヘルツェゴビナを抑えたことと、G組で13位のアメリカが4位のポルトガルを抑えたことだけだ。日本が敗退したC組の結果は全くランキング通りの順位だ。
 日本の評論家は「FIFAのランキングはヨーロッパと南米に甘い」と常々言うが、この結果を見ればかなり正確に位置付けられており、日本人こそ自分達に甘かったと言わざるを得ない。
 敢えて弁護をすれば日韓両国にとってブラジルは地球の裏側にあることだ。丁度12時間の時差がある地での開催だから体調管理は難しかっただろうし、実際、予定外の休養日を設けねばならなかったほどコンディションが悪かったように思える。南米の6チーム中5チーム、北中米の4チーム中3チームが決勝トーナメントに進めたのは地の利も大きかろう。スペインが敗退したのは南米のチリに負けたからだし、もう1つの大番狂わせのコスタリカは中米の小国だ。アメリカによる下剋上も地の利があったと思える。
 しかしFIFAのランキングが正当であると証明されたのだから日本の今後の強化策が見えて来る。FIFAランキングの向上だ。つまり上位のチームと積極的に対戦してハイレベルな技術と戦術を修得することだ。アジアの弱いチームとばかり戦って「お山の大将」でいるべきではない。
 日本にとってそれ以上の急務はオリンピックでの野球・ソフトボールの復活だろう。昨年末以来、IOC側が復活を認めそうなコメントを繰り返しているのに日本側の反応は鈍い。WBCとは違ってアメリカに牛耳られていないオリンピックでの野球・ソフトの復活に日本は全力を尽くすべきだろう。

延命

2014-07-01 09:46:37 | Weblog
 私の父は死ぬしばらく前から喉に穴を開けて栄養補給をしていたため会話をできなくなった。手の震えも止まらないため文字も書けなかった。首肯することによってしか意思表示ができなかった。
 意識不明の状態のままチューブ巻きの状態で生き延びている人もいる。回復の見込みが無い人までこんな形で生き永らえさせることに意味があるのだろうか。
 まだ実現していないが究極の延命策がある。脳だけを生かすことだ。脳を培養液に浮かべて電気信号によって意思疎通を図るという方法だ。意識の無いチューブ巻きの状態よりはこちらのほうがマシかも知れない。
 この前段階として幻覚を与え続けるという方法が考えられる。何等かの刺激が無ければ脳は眠ってしまうらしいので、一方的に電気刺激を与えれば脳がそれを勝手に解釈する。手や足を失った人が存在しない手足に対して感じる感覚を幻肢と言うがこの場合は「幻身」であり仮象そのものだ。脳の中だけの幻覚の世界が生まれる。外部の者には彼がどんな幻覚の中で生きているのか窺い知れない。快適さを感じる部位が働く刺激を増やして不快を感じる刺激を減らせば結構楽しい「脳だけで生きる人生」を過ごせるかも知れない。しかしこんな延命に意味は無かろう。肉体を失って脳だけになっても生き延びたいと思う人がどれだけいるだろうか。
 「ジョニーは戦場へ行った」という気の滅入るような映画があった。戦場で顔面と手足を失ったジョニーは意思を伝える方法を失くした。彼が屈身動作によってモールス信号を伝えていることに看護婦が気付いた。そのメッセージは`Kill me'だった。
 山上たつひこという漫画家がいる。彼の初期の作品に「光る風」というやはり気の滅入るような作品があった。自衛隊のエリートだった男が戦場で両手両足を失ってイモ虫のように這って生きる姿を描く暗い漫画だった。どういう訳かこの漫画が大好きだったという男がいたのでその後の代表作の「がきデカ」を読ませたところ余りの落差の酷さに絶句してしまった。