俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

鰻(3)

2014-07-30 10:11:57 | Weblog
 昨日(29日)は土用の丑の日だったが今年も鰻を食べなかった。絶滅が危惧されるようになった数年前から自粛している。私は種の絶滅を極端に嫌う。それは連綿と繋いだ系統樹を断ち切ることだからだ。祖先から受け継がれて地球が滅ぶまで続く筈だった生命連鎖の破壊になるからだ。これは個体を殺すこととは比較にならないほど重大なことだ。先祖から受け継がれた数十億年の生命の営みの断絶だ。江戸時代の「お家断絶」どころの話ではない。
 鰻がこんなに減ってしまったのは成魚も稚魚も獲ってしまったからだろう。成魚が大幅に減少してしまった時点ですべきことは稚魚の保護だっただろう。ところが日本では全く逆に成魚の不足を稚魚の養殖(捕獲)によって補おうとした。成魚も稚魚も獲ってしまえば絶滅の危機を迎えるのは当然のことだ。こんな簡単な理屈は誰にでも分かる。
 漁業資源は共有物だ。しかし獲った瞬間から私有物に変わる。漁民にとっては所有者のいない紙幣が泳いでいるようなもので、先を争って捕獲に励むことになる。自分が獲らなければ他人の物になるだけだ。これは共有地が荒れ放題になるのと同じことだ。消耗品の共有はもっと難しい。無価値なものであれば共有できるだろうが価値のある物なら早い者勝ちになってしまう。
 紳士協定によってこの危機を乗り切ることは難しい。何しろ紙幣が泳いでいるようなものなのだから、たった1匹でも多く獲ろうとする。もし日本の漁民が獲らなくても中国や台湾の漁民が獲ってしまうだけだ。国際条約によって捕獲禁止にするしか無かろう。
 食べることまで禁止にすべきとは思わないが「土用の丑の日、鰻を食うべし」に近いキャンペーンは当分の間、慎むべきだろう。一番悪いのは絶滅危惧種を捕獲して金を稼ごうとする人だ。獲る人さえいなくなれば自然に増えるだろう。私は危険ドラッグを買う人よりも売る人のほうが一層悪いと思う。良からぬことで稼ぐ人は良からぬことに金を使う人よりも罪深いと考える。今後10年ぐらいは「土用の牛の日」として牛肉奨励の日にしてはどうだろうか。

海の家

2014-07-30 09:39:25 | Weblog
 夏の屋外プールには異なった目的を持った人が集まる。大きく分けて、水遊びをしたい人と泳ぎたい人だ。夏休み期間中は水遊びをしたい人が増える。家族連れ、同級生、カップルなどだ。泳ぎたい人にとっては居心地が悪いので少しでも泳ぎ易いプールを探すことになる。
 かつて大阪の扇町には「大阪プール」という小学生以下入場禁止の深い50mプールがあった。当然、全員が泳いでいた。誰一人水遊びなどしなかった。近畿一円から水泳愛好者が集まったものだ。
 こういう水泳することに特化したプールは泳ぐ人には快適だが水遊びをしたい人にとっては不愉快だ。他のプールでの事故の影響もあってか1995年の9月に廃止されてしまった。
 ビーチに集まる人はもっと多彩だ。裸で騒ぐディスコ目当ての若者まで集まる。同じ場所に違った目的の者が集まれば当然利害の対立が起こる。大音量の音楽や深夜営業などが問題にされているが、解決策は意外と簡単だ。棲み分ければ良い。
 民家から最も離れた場所に若者向けの騒々しいビーチを作る。ここは24時間営業で酒も煙草も自由だ。騒ぐことを目的とした人のためのディスコビーチだ。
 民家の近くには昔ながらのファミリー向けビーチだ。営業は日の出から日没までで、酒も煙草も音楽も禁止だ。音楽を聴きたい人はイアホンで聞く。
 この両極の間にはグレーゾーンを設ける。酒と煙草は可能だが音量だけを規制する。このゾーンを更に分割することも可能だろう。
 1つの場所で違った客層に対応しようとするから利害対立が起こる。目的に応じて棲み分ければ済むことだ。田舎の道であれば歩行者も自転車も自動車も同じ場所を通る。都心でこんなことをやったら大混乱になる。利用者の多い道を区分して使うように、海の家も棲み分けるべきだ。同じ場所で全ての客層に対応することなど不可能だ。
 横並びという発想がそもそも間違いだ。どのビーチも同じルールにする必要など無いし、逆に「特区」のような発想で違ったルールを設けることによって様々な欲求に応えることが可能になる。都会近くのビーチこそ特化によって個性化して棲み分けることが必要だ。