俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

共生

2014-07-13 10:07:02 | Weblog
 生物は共生している。動物はミトコンドリアと共生し、植物は葉緑体と共生している。これらは生物本体とは別の遺伝子を持っており太古から共生し続けている。
 ミトコンドリアは酸素をエネルギーに変え、葉緑体は光合成を行う。つまりどちらの共生体も生命維持のための最も重要な役割を担っている。
 牛は自力でセルロースを分解できない。セルロースを分解するのは胃に棲む微生物だ。牛はこの微生物がセルロースから作った蛋白質を消化吸収している。だからこの微生物を殺してしまえば牛はセルロースを分解できなくなって餓死してしまう。他の草食動物も胃や腸に棲む微生物の助けを借りて生きている。
 人間はミトコンドリア以外の微生物とも共生している。O-157のせいですっかり悪玉菌にされてしまった大腸菌だが、大腸菌と共生していなければコンニャクを消化できない。またビタミンKなど多くの栄養素を腸内細菌が合成しているらしい。
 皮膚や胃腸などには常在菌が棲んでいる。殺菌や消毒をすれば常在菌が死ぬので却って悪玉菌が集まり易くなる。これはフセイン政権が倒されたことによって中東諸国に点在していたテロリストが集まったことと非常によく似た構造だ。
 生物が共生していることを忘れて抗菌を奨励することは正しい行為とは思えない。善玉菌や常在菌を殺せば悪玉菌にその座を譲ることになる。
 傷を消毒しないことが新しい医学常識になったが、これは消毒が体細胞を破壊するからだけではなく常在菌を殺してしまうからだ。
 人間は各種発酵菌や善玉菌の恩恵の元で生きている。バイ菌などと決め付けて殺菌・抗菌に励むからアレルギー症状が増えたとも言われている。菌を殺し過ぎれば、胃や腸の微生物を失った草食動物のように絶滅しかねない。共生するミトコンドリアを失えば動物は生きていられないという事実を忘れるべきではない。動物界の根本原理は弱肉強食や優勝劣敗ではなくいかに上手く共生するか、ということだ。

努力

2014-07-13 09:34:13 | Weblog
 私は努力万能主義者でも努力無用論者でもない。能力とは先天性×後天性だと考えている。つまり努力一辺倒でも駄目だが努力を怠ったら才能を発揮できないと考える。
 仮に蛙に言葉を教えようとしても徒労に終わる。蛙には言葉を操る先天的能力が欠けているからだ。また人を犬に育てさせれば彼は二足歩行も言葉も覚えない。教わらなければ身に付かない。能力とは先天性と後天性の相乗効果だ。どちらかがゼロであればその積はゼロになる。
 勉強嫌いな生徒は「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言って自己正当化を図る。とんでもない。社会科を勉強することによって記憶力を高め記憶のテクニックを身に付ける。数学を学ぶことによって論理的思考力を得る。国語を学べば理解力と発言力を修得する。大いに役立つ。
 かつて少年ジャンプは「友情・努力・勝利」を隠れテーマにしていた。最近「努力」が軽んじられていないだろうか。例えば今一番人気のONE PIECEでは「悪魔の実」を食べることによって超能力者になれるという設定になっている。かつての人気漫画の「ドラゴンボール」では死にそうな目に会う度に強くなるという設定だった。努力を積み重ねて能力を高めるというスタンスよりも棚ボタによって超能力を得るというパターンが妙に多いように感じる。努力は格好悪いという風潮があるのではないだろうか。
 古い話だが、高校生の頃、ある二流校の体育祭を見に行って驚いた。長距離走を真面目に走る者が殆んどいなかったからだ。トップを狙う数人以外は明らかにふざけて走っていた。なぜクラスの代表でありながらそんな行動をするのか分からなかった。これは負けると分かっている勝負で一所懸命走るよりも手抜きして惨敗するほうが良いと思っているからだろう。勝つなら努力は格好良く、負けるなら努力は恥ずかしいと考えているのではないだろうか。
 ストレス忌避の風潮と一脈通じるように思える。ストレスを悪と考えるのは正しくない。ストレスが無ければ人は弱体化する。重力というストレスから解放された宇宙飛行士は筋力が極度に低下して歩くことさえできなくなる。適度なストレスを善玉ストレスと呼ぶことさえある。適度なストレスにはトレイニング効果がある。
 やる気や根性に頼るべきとは思わないが、適度な努力は欠かせない。努力蔑視はストレス否定論と同じ間違いを犯している。