俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

免罪符

2014-08-13 10:21:20 | Weblog
 9日から10日にかけて三重県全域に大雨などの特別警報が出されそれを受けて市町村が57万人に避難指示を出したが、実際に避難したのはたった4,671人で負傷者数は僅か6人だったそうだ。結果的には一部の地域で床上浸水があった程度であり50年に1度レベルの災害とは言い難かった。特別警報を出して注意を喚起したから災害を未然に防げたと弁解することは可能だが空騒ぎだった。大体なぜ三重県全域が特別警報の対象になって周辺県が対象外になるのかさっぱり理解できない。自然災害は人工的な県境とは無関係だ。三重県は南北に長いから北部と南部とでは気候が全然違う。今回の大雨は北部に偏っていたのだから全県ではなく三重県北部で充分だっただろう。
 特別警報が出されたのはこれで3度目だが、昨年9月の京都府等も今年7月の沖縄も大災害には至っていない。逆に、土石流災害のあった昨年10月の伊豆大島では特別警報が出されず避難勧告も無かったということで散々批判された。
 こんな風潮では騒いだほうが得だ。危険かどうか分からなければとりあえず特別警報を出して市町村は避難勧告をする。空騒ぎに終わっても構わないのだから免罪符のようなものだ。こんなことが続けばイソップ寓話の「狼少年」の話のようになってしまう。
 他の動物と同様に人類も恐怖に敏感だ。恐怖という感情に最も敏感に反応する。しかし電気ショックを受け続けた犬がそのうち無反応になってしまうように、空騒ぎが続くと人も無反応になってしまう。このことこそ恐ろしい。
 マスコミは危険を煽りたがる特性を持っている。人類が臆病な動物であり危険情報に敏感だから、その弱点を突くことによる商業的メリットが大きいからだ。
 我々に必要なのは適切に怖がることだ。飛行機を怖がる人は少なくないが、航空機事故による死亡確率は25億㎞当り1人であり自動車よりも25倍も安全だ。こんなことをマスコミは報じない。基準値の2倍の食品添加物が検出されれば危険と騒ぐが、基準値が安全値の1/100以下に設定されていることは報じない。その一方で、東北地方での基準値を超えた放射線量は極力報じないようにする。こんなダブルスタンダードを使われたら我々は混乱する。自力で補正できなくなるからだ。
 朝日新聞と赤旗が最も読みやすい新聞と言われている。偏りが一定であれば自分で補正をすることによってかなり中立的な情報を得られるが、ダブルスタンダードやトリプルスタンダードを使われたら素人は訳が分からなくなる。正しく怖がるための情報が望ましい。

猫らしい犬

2014-08-13 09:40:14 | Weblog
 仮に「男らしさ」とされている特性のみが価値を認められるなら、男らしい女の価値が高く、女らしい女は人間のクズということになる。こんな馬鹿なことを考えている人が2種類いる。フェミニストと男性原理にどっぷりと漬かった石頭の男だ。奇妙なことにこの両極は男性原理の絶対的優位性という変な価値観を共有している。
 幾ら猫好きな人でも猫らしい犬を好きになることはあるまい。犬らし過ぎる犬よりはマシだろうが好きになれるレベルではあるまい。ライオンみたいな犬であればそれなりに面白いが、猫みたいな犬であれば猫以下の動物としか評価されない。要するに紛い物であり、猫以下かつ犬以下だ。
 個性とは先天性×後天性だと私は考えている。優れた先天性を健やかに伸ばして初めて優れた個性になる。乏しい先天性を無理やり伸ばそうとしても充分には伸びず却って歪なものになってしまう。天賦の才を正しく知ってそれを伸ばすべきだろう。
 男女は先天的に異なる。違った長所を持っている。長所を伸ばすことこそ自己実現であり、先天性とは異なったものを追及しても徒労に終わる。犬を猫として育てても猫になる訳ではない。出来損ないの犬になるだけだ。
 男女が先天的に異なることは優劣ではない。個性だ。不思議なことだが質的に異なったものに対して優劣を付けたがる人がいる。例えばカレーライスとラーメンとどちらが優れているかを決めたがる人だ。こんな人はアンケートに基づいて優劣を付けようとまでする。しかし多数決は商売の尺度にならなり得るが価値の尺度にはならない。
 優劣なんて要らない。優劣のような一元論ではなく、社会にとって必要なのは異なる価値を認め合う寛容性であり、それに基づく共存と棲み分けだ。
 古来、日本人は異文化を貪欲に受け入れて来た。これは自文化を劣ったものと考えるからではなく、他文化には異なった魅力があると感じたからだ。他文化を邪文化ではなく新文化として受け入れる包容力こそ重要だ。
 違ったものは違っているからこそ魅力がある。音楽と美術のどちらが優れた芸術かというような無意味な比較などせずに質的に違ったものをその違いゆえにこそどちらも優れたものとして受け入れるべきだろう。