俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

木と森

2014-08-28 10:04:10 | Weblog
 「木を見て森を見ず」という諺があるが、あらゆる学問が専門化し過ぎたために齟齬が生じている。特に顕著なのは医療だ。各専門医の学会が勝手に基準値を決めるから日本人全員が何らかの病人にされてしまった。日本人間ドック学会がこの厳し過ぎる基準を批判したところ各専門医から袋叩きに会っているようだ。
 科学においてはこれまで以上に学際が重要になっている。生物学は化学と一体化した生化学でなければ前へ進めない。「シートンの動物記」や「ファーブルの昆虫記」とは全く別の世界だ。しかし余りにも高度になり過ぎたために分業が必要になった。STAP細胞が捏造問題を招いてしまった原因の1つは分業だろう。
 哲学も専門馬鹿が多い学問だ。哲学者は余りにも少なく、哲学学者ばかりが多い。カント哲学の研究に一生を捧げることを否定しようとは思わないが本来の「哲学すること」とは懸け離れている。むしろ梅原猛氏のように、哲学で磨いた知性を歴史の研究などに使うほうが哲学者らしいとさえ思える。
 高度化すれば専門化することはやむを得ない。アリストテレスのような博物学が現代では不可能なことなど分かり切っている。しかし全体を見る目が必要なことは確実だろう。体から切り離された手足が本来の手や足とは全く別であるように、部分の集合は全体にはならない。幾ら優秀な選手を集めても監督不在ではチームとしての機能を果たせない。全体を統括することが必要だ。
 高度な医療のために専門化が必要なことは確かだ。しかし専門性と広汎性が矛盾するとは思えない。広く浅い知識が思わぬところで役立つこともあるだろう。
 内科医が精神病患者を作り、精神科医が身体障害者を作るような現状はどう考えても異常だ。本来、人間の科学である医学において総合医療こそ重要だ。専門馬鹿によって「手術は成功したが患者は死亡した」と言われるような本末転倒の事態からは免れたいものだ。

環境

2014-08-28 09:34:18 | Weblog
 温暖化の恐怖を煽る記事の中で最も酷いと思うのは農業問題だ。温暖化によって日本の農業が大きなダメージを受けるというデマには怒りさえ感じる。
 植物学の常識から考えて、温暖化もCO2の増加も農業にとってプラスに働く。温暖化に対応するための米の品種改良の話には絶句する。元々、温暖な地域の作物だった稲を寒冷地でも育てられるようにこれまで散々品種改良をして来たのであり、暖かくなって困ることなど何も無かろう。それどころか最大の農地面積を持つ北海道の全域が米作好適地になったら米の生産が増え過ぎて値崩れが起こることを本気で心配すべきだろう。
 暖かくなって困るリンゴやブドウについても産地を北海道に移せば済むことだ。リンゴやブドウなどが作れなくなった土地ではミカンなどを作れば良い訳であり、農家は決して困らない。怖いのはむしろ寒冷化だ。水が凍るほどの寒冷地になれば農業は困難になる。
 環境の変化は常にメリットもデメリットも伴うものだ。デメリットにばかり注目してまるで災害であるかのように騒ぎ立てる偏狭さには呆れざるを得ない。彼らにとっては変化とは総て悪なのだろう。
 温暖化以上に恐ろしいのは大気汚染だろう。日本もかつて四日市の公害で人命を危険に晒した。特急電車で通過する時、四日市に近付くと匂いで分かるほどの汚染だった。排気ガス公害も酷く、高速道路沿いの住民による公害訴訟があちこちで起こされた。その後、原告勝訴の判決や技術の進展によってこれらは克服された。
 しかし中国の場合、住民運動は期待できない。権力者の意向が人命よりも重い独裁国だからだ。訴訟にも期待できない。司法が共産党の御用機関になっているからだ。中国には自浄力が無い。死者が相次いで住民暴動が相次ぐようになって初めて見直されるのではないだろうか。しかしその頃までには日本人も少なからず被害を蒙っているだろう。空は繋がっているのだから他所ごとでは済まされない。これは中国の国内問題ではなく国際問題だ。風土病ではなく感染症だ。