俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

原因と結果

2014-08-15 10:10:20 | Weblog
 東京医科大学などのグループが「運動やボランティアなどの社会活動に参加している老人ほど要介護になるリスクが低くなる」と発表した。社会活動に参加しない人と比べて、運動する人は34%、趣味を持つ人は25%、町内会活動をする人は15%、それぞれ要介護になる確率が下がるとのことだ。詳しく説明するのが馬鹿馬鹿しくなるほど酷い研究だと思う。相関性と因果性を混同しており、原因と結果の関係は無茶苦茶だ。
 運動と要介護に負の相関性があることは確かだ。しかしどちらが原因だろうか?介護が必要になる人の多くはそれ以前から運動に参加できないほど体力が乏しい人だろう。元気な人だけが積極的に運動をするのだからこの相関性から、運動すれば要介護になりにくいという結論を導くことはできない。もし週2回の長距離走を欠かさないという老人がいれば多分5年後も元気だろう。このことで長距離走が有効だったと結論付けることはできない。
 趣味を持つ人にしても町内会活動をする人にしても、元気で時間を持て余しているから積極的である可能性が高い。元々元気な人はその後も元気だということにしかならない。
 研究者でさえ因果と相関を区別できないぐらいだから医療はデタラメが横行する。なぜだか分からないが医療関係者は因果と相関を区別できない人が多く、有害な医療が蔓延る。薬を飲んで風邪が治る訳ではない。風邪なんか充分な栄養を摂って安静にしていれば勝手に治る。主役は自然治癒力だ。対症療法薬はむしろ治癒の妨害をしている。その場凌ぎでしかないことが現代医療の重大な欠陥だ。
 現在アフリカで猛威を振るっているエボラ出血熱に対して医師はどんな治療をしているだろうか?実は点滴をするだけだ。点滴で栄養補給をすることによって免疫力を高めることが現在可能な唯一の治療だ。
 医療は患者を害してはならない。有害な薬の使用を慎むだけで人は随分健康になれるだろう。

進化

2014-08-15 09:40:09 | Weblog
 進化論は面白い。それは静的な生物学ではなく動的な生物学だ。単に今を叙述するのではなく、どんな経緯で今があるのかを解明するダイナミックな理論だ。その中から少し特殊で興味深い事例を紹介しよう。
 ①分断淘汰・・・中間ではなく両極が生き残ることがある。典型例は卵子と精子の役割分担だ。受精において1個の動かない卵子に向かって無数の精子が働き掛ける。原初においてはこれほど極端な役割分担ではなかったらしい。卵子も精子も相手に向かって動いていたようだ。しかし両者が動くことは無駄が多い。一方が動けば充分だ。だから豊富に栄養を持って動かない卵子と、身軽で動き回るがすぐに死ぬ精子という両極が適者となったようだ。中途半端な性質のものは淘汰された。
 ②相関変異・・・ある特性が他の特性と相関することがある。クチバシの短い鳩を作ろうとしてそんな鳩を選んで掛け合わせれば徐々にクチバシの短い亜種ができる。ところがそれと併行して足まで短くなるそうだ。鳩においてはクチバシを短くする遺伝子と足を短くする遺伝子は何らかの相関性を持っている。両者が同じ遺伝子の働きによるのか、それとも違った遺伝子が決定因だがそれを発動させる遺伝子が同一なのかは解明されていないが、生物において複数の特性が相関することはしばしば起こるらしい。
 これらは生物学的事実に過ぎない。しかし人間社会にも応用できそうな気がする。なぜなら生物の進化とは極めて合理的なものだからだ。最適でないものは淘汰される。目のような複雑なものまで進化は生み出した。人間は未だ科学技術によって目を作ることはできない。科学技術によって代行可能なのはごくごく一部に過ぎず、今のところ目の機能回復のための最善策は移植だ。移植を超えられないことこそ科学の無力さの証しだ。科学は人間の部品さえ作ることはできない。
 自然界に潜む叡智は人智よりも高いレベルだ。飛行機は鳥の模倣から生まれ、高速水着は鮫の肌を模倣し、痛みの少ない注射器は蚊の吸い口の模倣によって生まれた。自然界は自然淘汰によって生まれた合理的機能の宝庫だ。現代文明は未だ大自然が持つ叡智の足元にも及ばない。人類はまだまだ自然界から学ぶべきだろう。