心療内科のほうが精神科よりも敷居が低く感じられるらしい。精神科の対象は狂人であり、心療内科の対象は軽度の神経症患者というイメージがあるようだ。しかしこの敷居の低さが曲者だ。軽い気持ちで通院して薬漬けにされる。
実は私は精神科を受診したことがある。それは決して幻覚や妄想があったからではなく、当時は「神経性下痢」、今では「過敏性腸症候群」と呼ばれる疾患の治療のためだ。当時も今も過敏性腸症候群は病気ではなく体質だと思っているが、試験中の便意で何度も失敗していただけに治しておきたかった。当時の医療は現在のような薬一辺倒の時代ではなかったので、問診の他にロールシャッハテストなども受けた。
現在の心療内科医は碌に問診もせず、ロールシャッハテストなど知らないのではないだろうか。只管、対症療法薬を処方するだけだ。医師も患者も根本的な勘違いをしている。対症療法薬は治療薬ではない。不快な症状を緩和するだけであって原因は放置される。
例えば鬱病を患った人であれば大半が生活上の悩みを抱えている。家族の不幸や不仲、あるいは劣悪な労働環境など様々な事情がある。その原因を放置したまま、薬によって感情だけを操作しても全く無意味だ。困った状況にいながらそれを苦痛と感じさせなくさせるのが精神医療であるなら、それは治療ではなく家畜化・狂人化だ。
精神も内臓も外からは見えないからこんなデタラメが罷り通る。これが傷口であればこんなやり方では通用しないことが誰にでも分かる。切り傷で真っ先にすべきことは止血だ。もし不潔な環境での傷であれば雑菌や汚れの除去も必要だろう。少なくとも痛み止めは二の次・三の次だ。たとえ患者が「痛い、痛い」と訴えても傷口の治療を優先すべきだ。それなのに対症療法では原因を放置したままでの不快感の緩和が治療と思い込まれている。心療内科医や精神科医は、傷口を放置して痛み止めに尽力する狂った救急外科医のようなものだ。こんなことをしていれば悪化させるだけだ。
目に見える切り傷でさえ長年、消毒が奨励されていた。今では水洗いが正しい対処とされており、小学校の保健室からは消毒液が取り除かれつつある。ところが「怪我をしたのに消毒さえしない」と怒鳴り込む親が絶えないそうだ。無知とは迷惑なものだ。
実は私は精神科を受診したことがある。それは決して幻覚や妄想があったからではなく、当時は「神経性下痢」、今では「過敏性腸症候群」と呼ばれる疾患の治療のためだ。当時も今も過敏性腸症候群は病気ではなく体質だと思っているが、試験中の便意で何度も失敗していただけに治しておきたかった。当時の医療は現在のような薬一辺倒の時代ではなかったので、問診の他にロールシャッハテストなども受けた。
現在の心療内科医は碌に問診もせず、ロールシャッハテストなど知らないのではないだろうか。只管、対症療法薬を処方するだけだ。医師も患者も根本的な勘違いをしている。対症療法薬は治療薬ではない。不快な症状を緩和するだけであって原因は放置される。
例えば鬱病を患った人であれば大半が生活上の悩みを抱えている。家族の不幸や不仲、あるいは劣悪な労働環境など様々な事情がある。その原因を放置したまま、薬によって感情だけを操作しても全く無意味だ。困った状況にいながらそれを苦痛と感じさせなくさせるのが精神医療であるなら、それは治療ではなく家畜化・狂人化だ。
精神も内臓も外からは見えないからこんなデタラメが罷り通る。これが傷口であればこんなやり方では通用しないことが誰にでも分かる。切り傷で真っ先にすべきことは止血だ。もし不潔な環境での傷であれば雑菌や汚れの除去も必要だろう。少なくとも痛み止めは二の次・三の次だ。たとえ患者が「痛い、痛い」と訴えても傷口の治療を優先すべきだ。それなのに対症療法では原因を放置したままでの不快感の緩和が治療と思い込まれている。心療内科医や精神科医は、傷口を放置して痛み止めに尽力する狂った救急外科医のようなものだ。こんなことをしていれば悪化させるだけだ。
目に見える切り傷でさえ長年、消毒が奨励されていた。今では水洗いが正しい対処とされており、小学校の保健室からは消毒液が取り除かれつつある。ところが「怪我をしたのに消毒さえしない」と怒鳴り込む親が絶えないそうだ。無知とは迷惑なものだ。