著作権という概念が未だ無かった時代の作品だから「イソップ寓話」として随分違った話が伝えられている。プラトンの「パイドン」でソクラテスが「私もイソップ物語を作った」と語っているが、イソップ寓話は特定の作者による作品ではなく「寓話」という意味の普通名詞に近く、無数の作品が多くの人々によって作られたと思われる。日本人にとって最も馴染み深い「ウサギと亀」も若干ではあるが根本的に意味が異なる話が伝えられている。通常、ウサギが眠っている間に亀が追い抜いて勝つという努力を奨励する陳腐な話だ。ところが異本においては驚くべき物語になっている。
森の消防団を作ることになった。消火はゾウ、警備はワシ、警報はライオンと続々決まった。しかし伝令にウサギと亀が立候補してどちらも譲らない。そこで駆け比べをして亀が勝った。ところがある日、山火事が起こった。水中ではともかく陸での亀は遅い。森は丸焼けになり亀は焼死した。この教訓はよく知られている話とは全く逆であり、偶然に基づく勝利の価値を否定する。
「アリとキリギリス」の結末は意図的に改竄されている。夏の間、毎日歌って遊んでいたキリギリスは冬になって飢えと寒さに困り果てた。日本で流布している話ではアリが食料を分け与えて解決するが、原本では「夏は歌っていたのだから冬は踊っていろ」とアリが突っ撥ねる。「そうすれば少しは暖かくなるだろう」という意味だ。ラ・フォンテーヌによるフランス語訳では「歌っていた(chanter)から踊れ(danser)」が韻を踏んで痛快な幕切れになっているのに日本版にはそんな味わいは全く無い。
物語では作者が好きなように結末を導ける。メデタシメデタシと終えれば美談になる。物語の結末に必然性は要求されずドンデン返しも許される。論理はそうではない。それまでの経緯から結論を導かねばならない。好ましくない結論であってもそれを承認せねばならない。朝日新聞などのメディアはしばしば作話をする。つまらない事実であれば脚色をして感動のドラマに仕立て上げようとする。物語であれば許される手法だが報道機関としてはやってはならないことだ。これは不愉快な事実よりも面白い作り話を喜ぶ読者・視聴者の責任でもある。
森の消防団を作ることになった。消火はゾウ、警備はワシ、警報はライオンと続々決まった。しかし伝令にウサギと亀が立候補してどちらも譲らない。そこで駆け比べをして亀が勝った。ところがある日、山火事が起こった。水中ではともかく陸での亀は遅い。森は丸焼けになり亀は焼死した。この教訓はよく知られている話とは全く逆であり、偶然に基づく勝利の価値を否定する。
「アリとキリギリス」の結末は意図的に改竄されている。夏の間、毎日歌って遊んでいたキリギリスは冬になって飢えと寒さに困り果てた。日本で流布している話ではアリが食料を分け与えて解決するが、原本では「夏は歌っていたのだから冬は踊っていろ」とアリが突っ撥ねる。「そうすれば少しは暖かくなるだろう」という意味だ。ラ・フォンテーヌによるフランス語訳では「歌っていた(chanter)から踊れ(danser)」が韻を踏んで痛快な幕切れになっているのに日本版にはそんな味わいは全く無い。
物語では作者が好きなように結末を導ける。メデタシメデタシと終えれば美談になる。物語の結末に必然性は要求されずドンデン返しも許される。論理はそうではない。それまでの経緯から結論を導かねばならない。好ましくない結論であってもそれを承認せねばならない。朝日新聞などのメディアはしばしば作話をする。つまらない事実であれば脚色をして感動のドラマに仕立て上げようとする。物語であれば許される手法だが報道機関としてはやってはならないことだ。これは不愉快な事実よりも面白い作り話を喜ぶ読者・視聴者の責任でもある。