俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

名付け

2015-08-25 10:15:53 | Weblog
 愛知県大府市でアルバイトの男性が女性社長のパワハラによって蹴り殺された、と報じられた。なぜこの行為をパワハラと呼ぶのか理解に苦しむ。ただの暴行事件だ。パワハラは良いことではないが、暴行までパワハラと呼ぶことによってパワハラが極悪の行為であるかのように印象付けられる。
 いじめについても同じことが言える。学校での恐喝や暴行までいじめと呼ぶ。犯罪に該当しない行為のみをいじめと呼ばなければいじめの概念が無制限に拡張する。
 最近は余り使われなくなったが、ISをイスラム国と呼ぶことはイスラム教に対する悪印象を植え付ける。特異なものを一般名詞で呼べば一般名詞が穢される。
 コンプレックスという言葉がある。誤って劣等感の意味で使われることが多いが、正しくは「概念の複合」だ。本来、無関係の筈のものが無意識の領域において強固に結び付けられて人に異常な反応を起こさせる。レッテル貼りは人為的なコンプレックス作りであり、乏しい根拠しか無くても毛嫌いさせるために利用され勝ちだ。
 パワハラやいじめやイスラム教に悪意を持たせようとする人は概念の拡張によって偏見を植え付ける。
 戦前・戦中には「アカ」という言葉があった。多分狭義では「天皇制転覆を企む共産主義者」という意味だろうが、リベラルな考えの人まで「アカ」の烙印を押され人格を否定された。「アカは悪人だ」という命題だけが独り歩きをしていた。
 戦後こんなレッテル貼りは殆んど無くなったがなぜか「右翼」と「極右」という言葉がしぶとく生き残っている。「安倍首相は極右だから戦争を企んでいる」という論理性を欠いた理屈を使う人が今でもいる。
 ある食堂に豚汁定食というメニューがあった。豚汁とご飯だけの定食だ。ところがこれが常連客には人気のメニューだった。具沢山の豚汁が大きな器に入っており充分おかずになる食べ物なのにネーミングが悪い。「ちゃんこ鍋定食」や「豚ちゃんこ定食」と名付けて鍋に入れて出せば全然違った印象になり新規客の注文も期待できる。言葉は便利な道具だが、人は余りにもしばしば言葉によって騙される。

作話

2015-08-25 09:42:12 | Weblog
 記憶はしばしば嘘をつく。都合の悪い事実を忘れて空白を作り、その空白を適当に埋める。
 凶悪犯罪者が訳の分からない自供をすることがある。これは必ずしも狂っているからでも、無罪になるために狂人のフリをしている訳でもない。多くは意識的な作話ではなく無意識が生んだ作話だろう。犯行の記憶を抑圧してしまえば話が繋がらなくなる。記憶の空白を埋めるために話が作られる。これが言い逃れを目的とした意識的な作話であれば辻褄の合う話にするが、悪魔やドラえもんに導かれたといった荒唐無稽の話は夢と同じように無意識の領域で作られた疑似体験に基づくからだろう。
 人には辻褄を合わせる癖がある。分からないことを勝手に埋め合わせる。電車がトンネルを抜ける所を見ている人は、トンネルの中でも直前と同速度で走っているものと勝手に想像して通り抜ける瞬間を予測する。こうしてトンネルに入る前と後を整合させる。
 同じように事実と事実の空白を勝手に埋める。情報が欠けていても空想を差し込んで連続した情報にする。ドラマの途中で居眠りをしても前後の話を繋ぎ合わせて勝手に物語を作る。
 これは便利な機能ではあるがその反面、困った機能でもある。辻褄を合わせるために作話がされるからだ。よく知られているのは認知症患者による窃盗妄想だ。財布に入れていた1万円札が無くなったのは嫁が盗んだからだと主張する。実は自分で使っておきながらそのことを忘却することによって起こる妄想だ。
 財布に1万円札があった→今は無い→誰かが盗んだ→嫁が盗んだ、こんな思い込みを事実と信じるからトラブルになる。
 認知症でない人も同じようなことをする。事実と異なることを信じている人はそれを問い詰められると主に3種類の言い逃れを使う。「みんなが言っている」「テレビで言っていた」「新聞に書いてあった」。これらは検証困難だから言い訳として使い勝手が良い。デマをバラ撒く人は勝手にそんな事実があったと信じ込んでいる。本人が作話であることを知らないのだから迷惑この上ない。
 人は事実を知ることよりも都合の良いことが事実であることを望む。好きなことの良い情報と嫌いなことの悪い情報が選択的に収集されるから歪む一方だ。こんなプロセスで信じ込んだ嘘を守るためにも作話が使われる。
 神の存在を証明する事実は何1つ無い。それにも関わらずアメリカ人の半数以上が神の存在を信じている。一旦誤った信念を持てばそれを覆すことがどれほど難しいか、このことだけでも分かるだろう。彼らは都合が悪くなれば作話に逃げ込む。