俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

子供の自転車(2)

2015-08-29 10:09:14 | Weblog
 「子供は自転車に乗るな」とまでは言わないが、子供の自転車が危険であることはもっと理解されるべきだろう。子供は心身共に、自転車を安全に運転する能力を欠いている。厳しい指導が必要だ。
 小中学生は肉体的に未熟だ。運動能力が充分に発達していないからバランス感覚も悪くすぐに転ぶ。握力も弱いからブレーキを掛ける力も足りない。運動能力が乏しい分スピードを出せないのなら良いのだが、危険なのは下り坂だ。子供は極力ブレーキを掛けずにスピード感を楽しもうとする。多分、子供の自転車事故は下り坂で多発しているだろう。
 精神面の未熟さも危険を増幅する。子供はすぐに物事に夢中になって周囲が見えなくなる。横並びで走っていても仲間の方に注意が向かうし走行中にスマホを使えばそれ以外は見えなくなる。
 最も危険なことは道路交通法を知らずしかも遵法意識も乏しいことだ。平気で信号無視をするし必要な一時停止も怠る。子供に多くを要求してもどうせ守られないのだから、歩道走行のルールとマナーだけでも徹底的に叩き込むべきだと思う。
 一番初歩的なことは、歩道が歩行者優先であることだ。子供はなぜか「早いほうが偉い」と思い込んで歩行者を邪魔者扱いする。最低限この勘違いを正さねばならない。
 次に重要なことは歩道の車道側を走ることだ。多分、歩道上での自転車事故の大半は、建物側を走っている時に起こっているだろう。対歩行者・対自動車において、車道側を走ることによってどれほど安全性が高まるかを理解させる必要がある。
 もう1つは追い抜きだ。子供は歩行者を追い抜くことの危険性を知らない。歩行者は歩道上の車両を想定していないから突然左右に動く。すぐ横を摺り抜けようとしていれば追突してしまう。
 子供のほうが大人に優っているのは、飲酒運転の可能性がほぼ皆無であることぐらいしか無かろう。
 これらを実践できない限り、子供が自転車に乗ることを許すべきではなかろう。親だけではなく学校も責任を持って小中学生に教えるべきだ。学業成績よりも交通安全のほうが重要だろう。

根拠

2015-08-29 09:32:21 | Weblog
 根拠に基づいて信じていることを否定するためには根拠を否定すれば充分だ。しかし根拠を持たずに信じていることを否定することは不可能だ。天動説であれ創造(反進化論)であれ、こんな迷信を信じている人はどれだけ証拠を示されても頑なだ。
 医療においてもそんなオカルトが沢山あった。運動中は水を飲むなとか傷を消毒しなければ化膿するとか卵を1日に2個以上食べたらコレステロール値が上がるなどだ。消毒信仰は今尚、根強く、小学校の保健室で、擦り傷の児童に水洗いを施せば「消毒をしないことは職務怠慢だ」と怒鳴り込む親が少なくないらしい。それに対応するために学校では「まほうのみず」を用意しているそうだ。実はこれは水道の水をペットボトルに入れて冷やしただけのものなのだが、水道水で洗えば怒る親も「まほうのみず」なら納得するらしい。やはりオカルトに対応するためにはオカルトが最善手であるようだ。
 風邪の治療薬が無いことを多くの人が知っている。風邪の治療薬を作ればノーベル賞が貰えるとまで言われていることも広く知られている。それにも拘わらず医師が処方した対症療法薬や市販の総合感冒薬で風邪が治ると信じている。これは明らかに矛盾した行動であり知識と知恵が乖離している。
 宗教の弊害はもっと大きい。自分が信じている宗教だけが正しい宗教であり他の宗教は邪教と信じて異教徒の殲滅を企む。邪教徒を皆殺しにしても構わないと聖書に書かれているからだ。
 迷信に支配されている人は事実を知りたい訳ではない。自分が持つ歪んだ信念を正しいと保証して欲しいだけだ。だから彼らに幾ら事実を伝えても迷惑がられるだけだ。元々彼らは事実を知ろうなどとは思っていない。彼らが求めるのは安逸と平穏だ。彼らの迷信を暴くことは、結婚詐欺師に騙されそうな人を救おうとするようなものだ。せっかく良いことをしても「幸せを奪われた」と逆恨みされかねない。
 事実を知り得るのは事実を知ろうとする人だけだ。多くの人は事実を知って混乱するよりも現在のままでの安逸を求めるから事実を拒絶する。イデオロギーに凝り固まった人はどんなことであってもイデオロギーを守るために曲解して利用しようとする。凄まじい力で捻じ曲げるだけの知恵は持っているのだが、こんな人々と議論しても虚しいだけだ。「話せば分かる」訳ではない。