俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

透明

2015-08-22 10:16:17 | Weblog
 私は太陽光発電を余り評価しない。それは面積効率が余りにも悪いからだ。もし日本人に必要なエネルギーを太陽光発電だけで賄おうとすれば日本列島全土を太陽光パネルで覆う必要がある。そんなことをすれば単に農業ができなくなるだけではなく、地上の総ての生物が滅ぶ。面積当りでのエネルギー量なら植物を使ったバイオマスエネルギーのほうが遥かに効率が良い。それ故に太陽光発電は屋根などの無駄なスペースの活用に留めるべきであって、大規模な太陽光発電所は環境破壊だとさえ考える。
 太陽光発電が大好きな人でもソーラー自動車については触れたがらない。それが太陽光発電の欠陥を露呈するからだ。自動車を走らせるためには車体の10倍ほどの面積のパネルを備えねばならない。それほど面積効率が悪い。
 私が太陽光発電に否定的なのはそれが光を遮るからだ。光を通すなら余り環境破壊にはならない。しかしこんな考え方は矛盾している。光を遮るからこそエネルギーに転換できるのであって、光を通せばエネルギーにはならない。大きな電力を得るために巨大なダムが必要なのは水を堰き止めることによってエネルギーを蓄えられるからだ。
 しかし小型の水力タービンなら水を堰き止めない。エネルギーの一部を回転エネルギーに変えて大半の水はそのまま流れる。これなら環境への負荷は小さい。
 未だ実用化されていないがそんな太陽光発電機の研究が進められている。エネルギーとして使われるのは紫外線だけだ。だから透明にできる。
 太陽光には可視光線以外に紫外線と赤外線が含まれている。この中で最も大きなエネルギーを持つのが有害性も指摘されている紫外線だ。紫外線のみをエネルギーとして使うなら他の光線を透過させてもエネルギーが得られる。
 紫外線のみを遮るなら屋根付きのスポーツ施設などにも使える。問題になっている新国立競技場の屋根を開閉式にせず固定式の透明な太陽光発電パネルにすれば、採光と発電が同時に可能になり、現時点で考えられる最もエコロジカルな施設になる。
 但し残念ながら現時点での発電効率は余りにも低いそうだ。費用対効果で考えれば全く採算が合わない。しかし有害な紫外線を吸収してそれをエネルギーに変えるのだから一石二鳥だ。太陽光発電で環境を破壊しないためにもこの研究が実用化されて欲しいと思う。

戦争忌避

2015-08-22 09:39:47 | Weblog
 私は良心的兵役拒否に対して一定の評価をする。わざわざ「一定の」と断るのは怪しげなカルト教団の信者による兵役拒否が少なくないからだ。それ以外については勇気ある行動だと考える。
 その一方で空想的戦争忌避論については不快感を覚えるだけだ。武藤議員のように「利己的個人主義」とまでは言わないが、「だって戦争に行きたくないじゃん」とか「戦争は怖い」といった主張には全く賛同できない。当事者であるという意識が欠落しているからだ。事故時に福島第一原発の従業員が「放射能が怖い」と言って業務を放棄するようなものだ。命を粗末にすべきではないが、命懸けで事故拡大阻止に励んだ吉田所長を尊敬する。
 戦争をしたいと考えるのは狂人だけだろうが、国際警察が無い以上、国は自力で自国民を守らねばならない。話し合いが通用しない相手との問題を話し合いだけで解決することは不可能だ。中国が領海を侵犯したり、北朝鮮が武力を使って邦人誘拐を企んだりさせないためには充分な軍事力を備えて威嚇する必要がある。攻撃された時にキャーと叫んで目を逸らしている内に突然ウルトラマンが現れて総てを解決してくれるなどと期待すべきではあるまい。
 「平和であってほしい」とは誰もが考える。しかし「平和万歳」と呪文を唱えていても平和は訪れない。無条件に戦争を忌避していれば、強い軍事力を持つ国のやりたい放題になることは、スプラトリー(南沙)諸島での中国やウクライナでのロシアを見れば明々白々だ。全面戦争には至らない、局地的な戦闘の危険性は常に存在する。国家レベルでの犯罪的行為を阻止するためにはそれなりの軍事力を備えねばならない。外交力だけでは不充分だ。
 国内問題として犯罪の頻発は困る。しかし「犯罪反対」と唱えても何の効果も無い。「暴力団員追放」などの具体的行動であれば効果もあり得ようが、抽象的な「犯罪反対、犯罪無くせ」とデモで訴えても防犯効果は全く無い。自衛だけではなく民主的な警察や防犯カメラなどが必要だ。大企業であれば警察に任せ切りにはせず自らの負担で警備会社と契約している。「水と安全はタダ」ではない。安全のためには金が掛かる。安全を守るための警備員は暴力集団ではない。
 空想的戦争忌避者と空想的犯罪忌避者はよく似ている。現実的な問題とは捕えずに「嫌だ、嫌だ」と駄々を捏ねるだけで具体的な対策を放棄する。小学校1年生の時、学校で平和についてこう教えられた「みんな仲良くなれば良い」。問題になるのは利害が対立して仲良くできない相手との関係だ。こんなスローガンで平和が実現できると考えるのは小学校1年生以下の知的レベルの人だけだろう。