俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

利害相反

2015-08-31 10:26:04 | Weblog
 小学生の頃こんな漫画を読んだ。小学生が将来の夢について語り合った。ある女児が言った。「私は女医になって、絶対に病気に罹らなくなる注射をみんなに打ってあげたい。」男児が突っ込みを入れた。「それじゃ商売にならない。」
 医師が医師であるためには患者が必要だ。患者がいなければ失業する。人が死ななければ葬儀屋の商売が成り立たないように、医師は患者を必要とする。そんな状況で医師は本気で治療や予防に取り組むだろうか。
 サラ金にとって最高の顧客はきっちり返済する客ではなく適度に滞納する客だと言う。返済されてしまえば客との繋がりが途絶えるが、滞納であれば関係が継続するし金利も当初よりも高くなる。最悪は自己破産によって債権を失うことだ。医師にとっての患者も縁が切れないことが望ましい。つまり完治したり死んでしまえば困る。
 医師にとっての理想の患者は慢性疾患の患者だ。現状を維持していれば文句を言わずに通院を続ける。だから医師は治療することよりも悪化させないことに注意を払う。医師にとって困るのは完治・死亡・転院だろう。これが生活習慣病の患者が一向に減らず逆に増え続けている一因だと思う。薬など使わず食事を含めた生活全般を改善すれば大半の患者が快癒するのではないだろうか。しかし医師はお得意様を失いたくない。
 予防においてはもっと顕著だ。予防してしまえば患者がいなくなる。そんなことは絶対に避けたいのが人情だろう。予防など許せない。万難を排してでもそれを阻止しようとするだろう。
 予防も治療も医師にとっては好ましくないことだ。しかし予防も治療も医師が任せられている。これは暴力団に警察権を預けるようなものではないだろうか。自分が損をすることに熱心に取り組む筈が無い。
 治療はともかく、少なくとも予防医療は医師に任せるべきではなかろう。栄養士などの治療に携わらない人による健康指導があるべきではないだろうか。慢性疾患の患者も医師による支配から逃れられればもっと健康になれるだろう。医療機関ではない公営の「健康指導センター」のような施設があって、薬に頼らない健康改善指導が行われれば良いと思う。

総合判断

2015-08-31 09:49:18 | Weblog
 カントの主著「純粋理性判断」は「いかにして先験的総合判断は可能か」がテーマだ。残念ながらそれは必ずしも成功しなかった。私はこの本に感動したが、それは主に「二律背反」に基づく理性の限界論だ。現象界に留まり知覚に依存する理性は、経験不可能な無限や永遠について知り得ないという論理に目から鱗が落ちた思いがした。それまで幾ら考えても矛盾に陥って悩み続けていた永遠や無限について考えることが理性による僭越であったと知らされて、その後は思考可能な領域に絞って考えるようになった。これが私の俗物化の原点だ。
 厳密な総合判断は不可能だと思っている。確率的に正しい総合判断が可能な限界だろう。だから私は確率や可能性に拘らざるを得ない。
 分析判断が常に正しいのは命題そのものに答えが含まれているからだ。例えば「私は医者になれない」と「私は天皇になれない」は命題の形式は似ているが質的に異なっている。前者は誤っているかも知れないが後者は分析判断だから必ず正しい。
 前者を否定することは簡単だ。これから医学部に入学して国家試験に合格すれば済むことだ。ところが後者を否定することはできない。「私」にも「天皇」にも特殊な意味が含まれているからだ。私は天皇家の一族ではないから天皇になるための資格を欠いている。もし何かの間違いで私が日本の独裁者になっても就ける地位は王が精一杯であり天皇にはなれない。偽天皇か天皇紛いに過ぎない。それは「天皇」の定義に基づく。中国の皇帝のように易姓革命が認められている訳ではない。
 歴史を繙けば、継体天皇か天武天皇で王統が変わった可能性がある。しかしそれを今更証明できないから、少なくとも今後の天皇の座には天皇家の一族しか就けない。従って先の命題は分析判断であり必ず正しい。
 総合判断はどう足掻いても帰納的にしかその正しさを証明できない。万有引力の法則のようにその可能性が極めて高い場合か、この天皇論のように総合判断を装った分析判断であれば演繹も可能だが、総合判断である限り例外の存在から免れることはできない。
 既に起こったことの総てに事象性(現実性)があり、未だ起こっていないことは可能性(非現実性)に過ぎないといった幼稚な現実主義を退けるためには確率論が必要になる。偶然と必然は明確に区別できるものではなく、黒と白の間にグレーがあるように、可能性としての無限のグラデーションが存在する。可能性が高いと考えられていたことが現実になれば必然と評価され、可能性が低い筈のことが起これば偶然と評価される。100%確実な必然性や完全な因果性はあり得ない。野球やサッカーのボールならどう跳ねるか予測可能だが、ラグビーのボールの跳ね方を予測することはできない。