俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

混浴

2015-08-18 10:17:53 | Weblog
 幕末から明治初期にかけて欧米人の多くが混浴の風習を非難した。政府はそれを受けて何度も禁止令を出したがなかなか徹底されなかった。あるいは庭先での行水も当時は日常的だったようで欧米人はこれも厳しく非難した。彼らには日本人は著しく羞恥心を欠いた野蛮人と映った。
 現在の価値観で考えれば彼らの主張は正当だ。但しそれは彼らの価値観を受け入れたから正当であるだけだ。
 ムスリム(イスラム教徒)は女性が西洋式の水着を着ることを認めない。それは羞恥心を欠くだけではなくコーランの戒律にも背く。しかし日本であれ西洋であれ、女性が水着で街を歩くことまで認めている訳ではない。水着はあくまでビーチやプールでの衣装だからだ。
 水着がビーチやプールでの正装であるように、全裸は風呂での正装ではないだろうか。ビーチで女性を凝視してはいけないように、混浴で女性を凝視することも禁じられていた。
 ビーチで露出された肌に触ってはならないように、混浴で触ったり性行為を行うことは禁じられていた。見ることと触ることは全然違うし、触ってはいけなければ性行為など行われる筈が無い。男女が同時に裸になる混浴のどこが不道徳なのだろうか。ビーチやプールでの半裸とどう違うのだろうか。
 かつて授乳は日常的な行為だった。街中でも電車内でも普通に行われていた。ところがいつからか、まるで排泄のように密室で行われるようになった。授乳までが性的行為と見なされるようになった。
 昔であれば複数の男女が同室で寝泊まりすることがあった。これにエロチックな意味は全く無かった。バレーのダンサーは薄衣しか纏わないがこれをストリップショーの一種と考えるならその人の品性を疑う。
 人類は類人猿から進化したから、人類のオスは視覚によって興奮するという性質を受け継いでいる。しかし性欲を喚起されても抑制できるのが人類の特長だろう。江戸時代の日本人にはそれができたのに西洋人にはできなかったようだ。彼らには発情期の犬か猿程度の理性しか備わっていなかったから混浴を否定したのだろう。

不寛容

2015-08-18 09:45:41 | Weblog
 ローカルな話だが、来年サミットが開かれる志摩市は碧志摩(あおしま)メグという漫画キャラクターを公認している。これに「胸を強調して不愉快」として公認撤回とポスターの撤去を求める署名が提出された。その署名数は309人分だった。最近こういった不寛容が目立つ。気に入らないことに対して難癖を付けて禁止させようとする。
 このキャラクターは普通の漫画だ。エロ漫画のように部分を強調した絵ではないし、特にいやらしいポーズをしている訳でもない。漫画好きの私が受ける印象は単に「可愛い」ということだけであり卑猥な感じは全く無い。もしこのキャラクターが猥褻であるなら街を歩く若い女性は殆んどが猥褻物ということになってしまうだろう。絵に対する好みは人様々であり、誰がどんな絵を好もうと嫌おうと本人の勝手だ。それを署名活動までして禁止しようとすることに最近の困った風潮を感じる。しかしたった309人しか署名しなかったのだから、殆んどの人から反対されたのだろう。
 類似の例として「気持ちが悪い」と言ってジャポニカ学習帳から昆虫の写真が外されたり、ファミリーマートのフォアグラ入りのハンバーグは「残酷だから」と販売中止に追い込まれた。公園ではあらゆる行為が禁止されつつあるし、保育園は「うるさい」という非難に晒されて新設が困難になっておりこれが待機児童増加の一因ともなっている。愛知県東海市ではイアホンを使った「無音盆踊り」まで登場した。まるでカルト教団による儀式のようで不気味だ。花火大会に対して騒音や匂いなどを理由にした苦情も増えているらしい。
 この不寛容拡大の発端になったのは嫌煙権活動だったのではないだろうか。それまでは違法でないことが禁じられることは無かったが、喫煙者の権利はどんどん剥奪された。これが違法でなくても圧力によって禁じることができるという前例となった。煙草は有害性が否定できないからそれなりに意義があるが、発端は「嫌」煙権だ。つまり嫌うということが権利として認められたから嫌なことであれば遠慮せずに文句を言うことが是とされた。この延長として「嫌」アニメ権であれ嫌昆虫権であれそれなりの理屈さえ付けられれば認められることになった。嫌犬権(ケンケンケン)や嫌猫権も多分認められるだろう。
 当初は多数者による嫌○権だけが認められていたが少数者も同様に権利を主張するようになったから収拾が付かない。少数者だけではなく匿名の個人まで勝手な理屈を並べるようになった。これであれもこれも禁止されることになった。もっと寛容になれないものだろうか。嫌うことは本人の勝手だか違法でないものまで禁止する権限など誰にも無かろう。