俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

君子豹変

2012-11-08 09:40:41 | Weblog
 広辞苑によると君子豹変とは「君子は過ちがあれば速やかにそれを改め、鮮やかに面目を一新する」という意味だ。では僅か5日間でその主張をコロコロ変えた田中大臣は君子だろうか。とんでもない。君子は自ら誤りに気付いてそれを正す。田中大臣は誤りを認めようとせずに敵を増やし続けて、言い逃れるために嘘と言い訳を繰り返しただけだ。その過程で無用な混乱を招いたことを反省もせずに「大学設置のあり方を見直すことは多くの人が賛成した」とか「役所主導を変えるのはエネルギーが要る」と発言し、挙句の果ては「いい宣伝になって4・5年間はブームになるかも知れない」と言うなど自己正当化に終始している。これでは君子ではない。ただの無責任だ。
 完璧な人間などいない。誰でも誤ることはある。誤った時に素直に謝れるのが君子だ。誤っても認めず四面楚歌になっても言い繕い続けて言い逃れが不可能と悟るや「全面撤回したのだからこれ以上つべこべ言うな」と言わんばかりに開き直る。これでは「小人」そのものだ。
 多分、田中大臣もかなり早い時期に自らの誤りに気付いていたのだろう。その程度の知恵はある筈だ。その後の迷走は「落としどころ」を探っていたからだろう。6日に「新基準で再審査する」と発表したのは妥協案であり、もし最初の発言がこれだったらこれほどまでに激しい国民的反発を招いてはいなかっただろう。
 政治家は人気商売だ。人気を高めるためには多少のパフォーマンスも必要だ。世間を驚かせるような発言をすれば注目を集められる。大阪市の橋下市長もわざと過激とも思える発言を繰り返す。しかし橋下市長には優秀なブレインが付いているようで決して問題を増幅させることは無い。田中大臣にはブレインが欠けていたようで自ら泥沼にはまって墓穴を掘ってしまった。哀れな末路だ。

加点法

2012-11-07 10:13:04 | Weblog
 京セラの創業者の稲盛和夫氏は「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」と言った。しかしもし悲観的に計画したら殆んどの事業が計画段階で打ち切られるだろう。新しい事業が成功する可能性はせいぜい1%程度だ。成功者の代表とも言えるユニクロの柳井正氏でさえ自らの著書で語っているとおり「1勝9敗」だ。エジソンは「私の実験の99%は失敗だった」と語っている。
 ビジネスは運が無ければ成功しないという意味では雨乞いに似ている。雨乞いをして運良く雨が降れば村は存続し、降らなければ滅ぶ。成功したとされるビジネスモデルなど所詮は雨乞いの成功と大差は無い。敵味方が入り乱れた戦いで生き残れるのは力よりも運に負うところが大きい。成功に必然性は無い。運が必要だ。
 どんな優れた企画であろうと必ずしも成功するとは限らないが、必ず失敗する企画はある。勝利に必然性は無いが敗北には必然性がある。危機管理を欠いた企画は必ず失敗する。総てが順調に推移すれば成功するという甘い企画は「風が吹けば桶屋が儲かる」と同レベルだ。これが失敗することは必然だ。
 新企画の殆んどが失敗するのだから減点法で採点すれば新しいチャレンジをした人の評価が下がり、現状を維持しただけの人の評価が相対的に上がる。成功しなかったことを正当に評価する加点法を採用しなければ組織は萎縮する。現在の日本の低迷の一因は減点法だ。

内定取り消し

2012-11-07 09:43:32 | Weblog
 平成18年頃、企業による内定取り消しが社会問題になった。問題化されるまで企業側は「決定ではなくあくまで内定の取り消しに過ぎない」と突っぱねていたが、その後は示談に応じ賠償金を支払うことが通例となった。当然のことだ。学生は第一志望企業の内定を得たらその時点で就職活動を終える。「内定」という言葉は正式文書ではないが重い。それを安易に取り消されては堪らない。
 今回の田中大臣の暴挙はこの一連の事件を想起させる。「認可される前に校舎が建っているのはおかしい」と言うが内定があったから校舎を建てたと考えるべきだろう。校舎さえ建っていない大学の来春開校が認可されることなどあり得ることだろうか。
 現在の認可制度は翌春開校が前提であり、ソフト・ハード共に充分に準備されていることが確認されて初めて認可される。それまでに内々定・内定を得ているから大学側は来春の開校に照準を合わせて準備を進めて来た。それまでのプロセスを無視して突然不認可にすることはかつての内定取り消し問題と同様に権力者の横暴でしかない。
 「大学の乱立に歯止めをかけ」たいのなら「教育の質」を低下させている既存の大学を改廃すべきであり、何の落ち度も無い新設校に責任を押し付けるのは言語道断だ。これは東京都民の思考力が低下しているという理由で東京で生まれた新生児を無差別に間引きするような暴挙だ。
 党内外から集中攻撃を浴びるまでに一刻も早く3大学の開校を認可すべきだ。遅れるほどに被害は拡大して、最終的に国民が負担させられる損害賠償額も大きくなる。

医療不祥事

2012-11-04 10:13:22 | Weblog
 悪徳医師には生活保護受給者は現金輸送車か足の生えた札束に見えるらしい。それほどまでに食い物にされている。但し実際に被害を被るのはそれを負担させられる国民だ。
 生活保護の受給者は医療費の個人負担が無い。それを悪用した不正医療が少なくないがその典型例と思える事件が2009年に発覚した。山本病院事件だ。関西の人とそれ以外の人とでは情報量が全然違うので概略を説明すると、生活保護受給者を入院させて検査漬け・薬漬けにして更には不必要な心臓手術まで行って死に至らしめたというとんでもない事件だ。一審の奈良地裁では実刑判決が下されたが大阪高裁へ控訴されているので未だ刑は確定していない。
 生活保護受給者は検査や薬の自己負担が無いので自覚症状が無くても医師の言いなりになる。それに付け込んで散々検査をして大量の不要な薬を処方してもその費用は総て福祉=国民の負担となる。
 30日以上入院させると診療報酬が減額されるのでそれまでに「悪のネットワーク」を使って他の特定の病院に転院させる。転院先では新規の入院患者として検査漬けにして「○○の疑い」というカルテをでっち上げて薬漬けにする。そしてまた30日以内に他の特定の病院に転院させて同じことを繰り返す。カルテや処方箋の偽造もやりたい放題だ。その診療報酬は(ニセ)患者一人・1ヶ月当たり100万円ほどにも達するそうだ。
 ニセ患者にとっては「食う寝る所に住む所」が提供され至れり尽くせりだ。ホームレス生活とは比べ物にならない快適な環境だ。こうやって生活保護受給者と悪徳医師による利権構造が生まれる。彼らは国民の財産を蝕むダニだ。こんなデタラメを見逃す厚生労働省の役人は亡国の輩だ。

皺寄せ

2012-11-04 09:46:06 | Weblog
 田中真紀子文部科学大臣が大学設置・学校法人審議会の答申を覆して、来春開校の予定だった3大学が開校できなくなった。田中大臣が指摘するとおり、大学が多過ぎることや大学生の質が低下していることは事実だろう。しかし少なくともこの3大学には学力低下の責任は無い。これは八つ当たりかいじめのようなものだ。
 東京に引っ越す予定の人が突然「東京の人口は多過ぎる」と言って拒絶されて納得するだろうか。開店直前のコンビニが「店が多過ぎて共倒れになる」として営業許可を取り消されたらどうするだろうか。生活保護の不正受給が多いという理由で新規の受給請求を拒否できるだろうか。
 現在の制度に問題があるのなら全体で解決を図るべきであって、弱い立場にいる許認可を求める人に皺寄せするべきではない。監督官庁の指導に沿って粛々と準備を進めて来た善良な新規参入者を突然拒絶するのは既存集団の既得権益だけを守ろうとする排他主義以外の何物でも無かろう。もしかしたらどこかの大学に接待されて「大学が多過ぎる」と言われて「よっしゃよっしゃ」と引き受けたのではないかという下衆の勘繰りさえしたくなる。
 もしこれまでの認可制度が間違っていたのなら最初にすべきことは組織の長としての謝罪であり、次にすべきことは不正な状態を放置していた前任者・前々任者等に対する断罪であろう。それをせずに一方的に否定して、2階に上がった人の梯子を外すような卑劣なマネをすべきではない。これは政治主導ではない。権力者の横暴だ。

競争社会

2012-11-02 09:09:30 | Weblog
 男女の違いは色々あるが、競争と協調という違いも見逃せない。男性の友情は切磋琢磨だ。ライバル関係にある者が競争をして個々に成長する。女性の友情は協調だ。仲間同士で協調し社会とも協調しようとする。
 100m走では男女の顕著な違いが現れるそうだ。男性は誰かと一緒に走ったほうが一人で走るよりも早く、女性では有意差は無いとのことだ。私のような競争嫌いの男でも、プールの同じコースに他人がいる時のほうが早く泳ぐ。本来なら相手に気を使うから遅くなる筈なのに競争相手と捉えてしまうのだろう。男性は競争したほうが能力を発揮できるように作られているようだ。
 異論はあろうが、かつての日本は協調社会だった。個人の成果よりもチームの成果のほうが重要視された。そのため内部では競争よりも協調が優先された。昨今では成果主義の名の元で競争が奨励されているが、これは中途半端な競争主義なので却って業務の効率を落としている。 
 このことは韓国と比べれば明白だ。韓国はアジア通貨危機以降、急激に競争社会に変わりつつある。米国以上に熾烈な弱肉強食の競争社会かも知れない。サムスンやヒュンダイなどの国際企業は優遇され、学生はほんの一握りの優良企業に入社するために鎬を削っている。芸能人も国内市場が小さいので国際的に通じるレベルでなければ排除される。
 競争社会は言わば男性原理の社会だ。表での協調と裏での嫉妬が原動力であるかつての日本の女性原理とは正反対のものだ。女性原理から男性原理への急激な移行は歪みを生む。そもそも日本では男性原理が確立さえされていない。飼い馴らされた弱々しい男性しかいないからだ。もし本当に競争社会を目指すなら教育を見直さねばならない。「男性」を育てることから始めねばならない。一体何年かかることやら・・・。

恥の起源

2012-11-02 08:45:30 | Weblog
 恥ずかしいから隠すのではなく、隠すから恥ずかしくなる。例えば女性の性器は隠したことによって恥ずかしくなった。ではなぜ隠したのか、妊娠させられないためだ。性器を晒していれば強引に妊娠させられる可能性が高くなる。一旦妊娠させられれば一年近くに亘って不自由な生活を強いられる。こんな不都合を避けるために女性は性器を隠した。これは貧民街で一万円札を見せびらかさないのと同じことであり大切な物を守るためだ。
 動物の種族内淘汰において重要な要素は機能性と美だ。ところが一旦隠すようになると外見による淘汰が働かなくなる。美という淘汰要因が働かなければ変な格好の性器を持つ人も機能性さえ高ければ淘汰されない。その結果として多くの人が醜い性器を持つようになりそれを見せることが恥ずかしくなった。
 男性の場合は違った事情だ。多分戦いで有利になるために隠したのだろう。睾丸を鍛えることはできない。目と並ぶ鍛えられない急所だから相手の攻撃から守る必要がある。どの格闘技でも金的と目突きは反則だが戦闘や喧嘩にルールは無い。
 ペニスも弱点だ。ペニスを相手に掴まれたら身動きが取れない。それは小指を掴まれるようなものだ。細くて強度の乏しい部位は引きちぎられる恐れがある。
 男性性器は戦闘で不利にならないために隠された。しかし一旦隠されると女性性器と同様、外見による淘汰が働かなくなり機能性一辺倒の奇妙な形へと進化する。こうしてみっともない形になったから見せるのが恥ずかしくなった。
 恥は二次的・三次的な感情だ。先天的なものではないので原理とはなり得ない。

法教育

2012-11-01 09:31:10 | Weblog
 なぜ学校で法律を教えないのだろうか。古い話だが昭和43年に佐賀潜氏の「民法入門」という本がベストセラーになった。当時高校生だった私も興味深く読んだ。
 法学部は文系で最も人気のある学部だ。また法律の基礎知識は国民として必須なだけに高校のカリキュラムに組み込まれていないことは全く不可解だ。織田信長やナポレオンについて知るよりも道路交通法について知るほうがずっと役に立つ。
 因みに現在の高校の社会科はこうなっている。[地歴]日本史、世界史、地理(各4単位)。[公民]現代社会、倫理、政治・経済(各2単位)。但し平成24年から「倫理+政治経済」が大学入試センター試験で4単位と認められるようになった。
 多分、現代社会や政治・経済で断片的に教えられているのだろうが、こんな継子扱いではなく「法律」として独立させて教えるべきではないだろうか。憲法・民法・刑法・道路交通法・労働基準法などから国民として特に必要な項目を抜粋して教えれば良い。将来、司法試験を目指す人なら独自により専門的に学んでも構わない。
 アメリカでは小学校高学年から高校まで継続して法教育が行われており、ヨーロッパでは多くの国で必修教科とされているそうだ。日本でも法教育を実施すれば、いじめに対して「心の問題だ」などといった馬鹿げた議論には陥らず「暴行や恐喝は刑事犯罪だ」という共通認識に基いて速やかな解決が図られるのではないだろうか。 
 もし国民が法律に詳しくなったら都合が悪いと権力者が考えているのならこれは典型的な愚民政策であり絶対に許すことはできない。

健康医学

2012-11-01 09:07:09 | Weblog
 心理学は実験心理学と臨床心理学に大別できる。前者は統計的手法を使って人間心理を解明しようとするもので、後者は精神障害者を治療するためのものだ。極論すれば、前者は正常者のための、後者は異常者のための心理学だ。
 この考え方を医学に敷衍できないものだろうか。医学は元々治療から発達した。病気や怪我を治すことが唯一・最大の目的だった。病気という異常状態の治療ではなく、健康という正常状態に対する役割があるべきだろう。
 反論がありそうだ。臨床医学と基礎・研究医学に分かれている、と。しかしこれは違う。基礎・研究医学の大半は病気の原因と治療法の研究であり、健康に対しては積極的に関与していない。
 人間は誰でも何らかの病気を抱えている。白か黒かと言えばほぼ全員が黒だ。しかし各人を主な100種類の病気についてチェックすればせいぜい1つか2つの病気しか抱えていない。つまり99か98の病気については健康だということになる。人間の大半は健康人だと言っても構わないだろう。
 病気という欠点ではなく健康という長所に注目する医療があっても良かろう。どのようにして体と脳を健康な状態に保つかは重要な課題だ。老人の体と脳の健康については研究されているが、成人の健康に対する研究は未だ不充分だ。
 現在の医師は病気の専門家であって健康の専門家ではない。こんな歪んだ形を正して健康医学という新しい医学が生まれることに期待したい。