市川團十郎氏の辞世の句が発表された。「色は空 空は色との 時なき世へ」これをなぜ海老蔵氏が「イロはソラ・・・・・」とワザと間違えて読んだのかその真意は分からないが、この句が般若心経の「色即是空 空即是色」を踏まえていることは間違いない。
色即是空は「この世の楽しみは虚しい」という意味だ。大半の宗教はこの世の虚しさを説く。パスカルも「パンセ」で頻りに「気晴らし(divertissment)」という言葉を使って「神なき人間の惨めさ」を強調する。これは宗教へと人を向かわせるためにこの世を呪詛する常套手段だ。
仏教の場合ここから先が違う。色即是空の次に空即是色が来る。つまり「虚しさこそ悦びだ」という意味だ。この言葉から私はカミュの「シジフォスの神話」を想起する。シジフォスが受けた神罰は巨岩を山頂に運ぶことだ。しかし山頂に運ばれた岩はまるで生き物であるかのように転げ落ちる。これを未来永劫繰り返すことが彼の罰だ。しかし彼はそれを肯定してその作業を続ける。
この世が無意味であろうとも自分にできることを精一杯やる。無意味な世界が永遠に回帰しようともニーチェのように「もう1度」と挑み続けること、これが「空即是色」だと私は解釈している。
人生に意味など無くても一向に構わない。人生とは舞台だ。舞台の意味を求めることよりもいかに演じ切るかのほうが大切だ。それどころか誰かによって妙な意味を与えられることこそ断固拒否したいとさえ思う。
色即是空は「この世の楽しみは虚しい」という意味だ。大半の宗教はこの世の虚しさを説く。パスカルも「パンセ」で頻りに「気晴らし(divertissment)」という言葉を使って「神なき人間の惨めさ」を強調する。これは宗教へと人を向かわせるためにこの世を呪詛する常套手段だ。
仏教の場合ここから先が違う。色即是空の次に空即是色が来る。つまり「虚しさこそ悦びだ」という意味だ。この言葉から私はカミュの「シジフォスの神話」を想起する。シジフォスが受けた神罰は巨岩を山頂に運ぶことだ。しかし山頂に運ばれた岩はまるで生き物であるかのように転げ落ちる。これを未来永劫繰り返すことが彼の罰だ。しかし彼はそれを肯定してその作業を続ける。
この世が無意味であろうとも自分にできることを精一杯やる。無意味な世界が永遠に回帰しようともニーチェのように「もう1度」と挑み続けること、これが「空即是色」だと私は解釈している。
人生に意味など無くても一向に構わない。人生とは舞台だ。舞台の意味を求めることよりもいかに演じ切るかのほうが大切だ。それどころか誰かによって妙な意味を与えられることこそ断固拒否したいとさえ思う。