俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

替え歌

2014-03-21 10:00:17 | Weblog
 チキンラーメンのCMはよくできている。「♪チキンラーメン開いて♪」という「結んで開いて」の替え歌だ。この替え歌という戦略には2つの長所がある。
 1つは覚え易く想起し易いことだ。誰でも1度聞けば覚えてしまう。そして更に「♪結んで開いて♪」と聞けばすぐにチキンラーメンを思い出す。
 もう1つは著作権だ。この曲はジャン・ジャック・ルソーの作曲だから当然、著作権料は不要だ。当たるか当たらないか分からない新曲にお金を使うよりも圧倒的に有利だ。
 私は余りテレビを見ないので多くの実例を挙げることができないが、セブン銀行の「どんぐりころころ」のほかに、JAバンクは昔のアニメの「マッハGo!Go!Go!」で、ロッテのフィッツはやはりアニメの「狼少年ケン」の替え歌だ。他にも沢山あるだろう。
 「結んで開いて」について私にはかなりくだらない思い出がある。昔「噂のチャンネル」という低俗番組があった。その番組で当時、足の長さをアピールしていた歌手の浅野ゆう子さんを含めた出演者全員が「結んで開いて」で踊った。「♪また開いて♪」のところがヤマ場だった。リハーサルでは全員が大きく股を広げるという設定だったのだが、本番では浅野さんだけがガバッと大きく股を広げて他のメンバーは浅野さんを笑った。
 私も大笑いした。笑いながらも彼女の足の長さに驚いたものだ。このギャグに悪意は無い。浅野さんは足の長さが自慢だったからこれによって長所をアピールしつつ騙されるお馬鹿役を演じた。低俗番組と言われていたがタレントの長所を引き出す姿勢には好感が持てた。余程印象に残っているようで今でもこの曲を聞くとチキンラーメンより先にこのシーンを思い出す。

赤ん坊

2014-03-21 09:31:46 | Weblog
 赤ん坊の泣き声は気に障る。これほど不愉快な音は無い。これは音量ではなく音質が招く不快感だ。機内や電車内での泣き声が問題にされるのは当然のことだと思う。
 通常の動物ではあり得ない行動だ。もし人類以外の動物の未熟体がこんな音を立てれば忽ち肉食動物の餌食にされてしまうだろう。動きの不自由な未熟体は注意を引き寄せるような行動をしてはならない。これは動物としての鉄則だ。
 では赤ん坊はなぜこんなに泣き叫ぶのか。これは猛獣に襲われる心配が無くなってから発生した特異な進化だ。他の動物に襲われる心配が無くなったから、親を不安・不快にすることによって自分に最大限の注意を向けさせようという極度に利己的な行動だ。
 この泣き声は殆んどの人を不安・不快にさせる効果を持つからこそ有効だ。「火が付いたように泣く」と言うように、赤ん坊の泣き声は火災と同程度の不安・不快を大人に感じさせる。人類史の大半を占める狩猟採集時代には人口密度は低く、機内や車内のような閉鎖した空間を共有することも無かった。そんな時代に適応した特性を赤ん坊は傍若無人に現代においても行使する。だから周囲の人にとっては迷惑極まりない。
 達観したように「赤ん坊は泣くのが仕事だ」と言って寛大さを強制しようとする人がいる。多分その人の本能は少なからず壊れているのだろう。赤ん坊の泣き声は人を最も不安・不快にする方向に進化したのだから、不快に感じないほうこそ異常だ。こういう鈍感力を身に付けることは高所平気症や虚言癖などと同様、人類にとっては好ましからぬ適応だ。もし大人の反応が鈍くなれば赤ん坊は嘔吐や引き付けのような号泣以上に強烈な形で訴えるようになるだろう。
 望ましいのは大人も赤ん坊も変わらないことだ。そのためには赤ん坊を他者と共有する密閉された空間に連れ込まないことが必要だ。どうしても連れ込みたい人は自ら犠牲を払って、つまり経済的負担を負って防音室に籠るべきだろう。赤ん坊の泣き声は周囲に有無を言わせずに撒き散らされる音による暴力だ。無差別の暴力が許されないように、保護者はこの暴力の責任を負わねばならない。

嗅覚

2014-03-19 10:07:24 | Weblog
 人類の嗅覚は犬よりも遥かに劣るだけではなく多分、哺乳類の中では最低レベルだろう。これは奇妙なことだ。必要でない知覚などある筈が無い。実際に人は貧弱な嗅覚を補うために犬の嗅覚を利用している始末だ。動物の頂点に立つと自称する人類の嗅覚はなぜ退化したのだろうか。
 嗅覚の個人差は大きい。ある人には芳香であっても他の人にはきつい匂いであり鼻が曲がるような悪臭かも知れない。人類が臭い場所に住んでいたから嗅覚が鈍い人のほうが適者だったとも考えられる。しかしこんな単純な理由ではあるまい。むしろ人類が群居動物でありコミュニケーションに依存しているからだと考えられる。嗅覚は伝達不可能だから優れた嗅覚という特性が継承されなかったのではないだろうか。
 匂いは移ろい易い。ここからここにある、と示すことはできない。同じ場所にいる人の間でしか共有できない情報だ。音もその場限りのものだが、人類には声があるので似た音を再現することができる。しかし発香力は持ち合わせていない。
 視覚で捕えた事実は伝達できる。絵に描いたり名付けたりすることによって他者に伝えられる。ところが嗅覚は伝達できない。クサヤの干物であれニンニクであれ「臭い」としか表現できない。誰がこれらをきちんと伝達できるだろうか。化学者であれば化学物質名を使って表現できるかも知れないが部外者には通じない。芳香でも同じだ。せいぜい「○○のような香り」としか表現できない。群居動物にとって共有できない情報の価値は低い。
 伝達・共有できない能力が淘汰されるなら困ったことだ。個人には他者に伝達・共有できない長所もある。これらも嗅覚と同様に退化するということになる。つまり集団にとって価値の少ない個性は失われるということだ。私自身、子供の頃にはなぜか方位を知覚できた。狩猟採集時代には人類が共有していた能力だと思うのだが、私の方位感覚もそのうち失われた。多元価値の社会でなければ人類は多様性を失って同じような個体へと「標準化」してしまうのではないだろうか。

100年後

2014-03-19 09:33:07 | Weblog
 100年後を予想できるだろうか。それを考えるためには100年前に現代の生活を予想できたかどうかを調べてみれば参考になる。1914年の時点ではプラスチックもテレビも自動車もパソコンも無かった。そんな時代に100年後の生活を予想できるだろうか。当時のイギリスでは馬車の馬糞の処理が大きな社会問題になっていた。100年どころか50年後さえ難しい。映画「2001年宇宙の旅」は1968年に制作されたが映画で描かれた文明のレベルには未だ到達していない。
 17日に環境省の研究プロジェクトチームが「今世紀末には日本の平均気温は3.5~6.4度上昇する」と発表した。この内容は科学の名に値しない。科学を冒涜する恥晒しだ。科学が何たるかを知らない連中による科学を騙ったオカルトに過ぎず税金の無駄遣いだ。科学であるためには満たすべき条件が2つある。「検証可能」と「再現可能」だ。この発表はどちらも満たしていない。
 地球は1つしか無いのだから再現可能は最初から満たし得ない。だからこそ検証可能を絶対に満たさねばならない。ところがこの発表は80年後の危機を煽るだけだ。「砂浜の8割が失われる」とか「熱中症など暑さによる死亡リスクは最大13倍まで高まる」とか騒ぐだけだ。どうやって80年後に検証する気なのだろうか。当事者だけではなくこの発表を覚えている人さえ一人もいないだろう。だから間違っていても責任を問われることは絶対に無い。
 更に無責任なことには最初から責任逃れを用意している。「温室効果ガスがこのまま増えた場合」という一言だ。このまま増えるとはどういう意味だろうか。世界で年に何%増えるという意味なのだろうか。どの程度増えるのかが曖昧なままでどうやって「砂浜の8割が失われる」と予想できるのだろうか。全く的外れになっても「このまま増えなかった」と言い逃れできる。
 科学であるためには数値を具体化すると共に、少なくとも10年後・20年後に検証できなければならない。そのために途中経過も含めて発表する義務がある。もし10年後の予測が的外れであれば80年後の予測など全く無意味だ。今後の技術革新や中国などによる大気汚染が招くであろう寒冷化の恐れなどは全く考慮されていないだろう。こんな情報は科学ニュースではなく占い欄にでも掲載すべき類いだろう。

3f

2014-03-17 10:21:12 | Weblog
 歴史物語はfact、fiction、fantasyの3段階に分けられると思う。
 まともな歴史書はfactだ。しかし何がfactであるかは難しい。例えば「民主党政権と東日本大震災」というテーマで100人が書けば100種類の歴史書が書かれるだろう。事実を把握する時点で既に価値判断が加わる。現代史でさえ難しいのだから情報が乏しい古代にfactを記録することは至難だ。ここでは「三国志」のレベルであればfactとしよう。
 伝承はしばしば相矛盾する。全然違った話が伝わっていることも少なくなくどれが本当なのか判定し難い。この点「日本書紀」は素晴らしい。「一書に曰く」という形で様々な伝承を併記している。どれが事実か分からない場合には最も事実らしいものを本文に採用した上で註釈によって補完することが最善の選択だ。
 factに記されていないことについては想像が許される。司馬遼太郎氏などによる歴史小説はあくまでfictionだがfactに基づく。誰がいつ死んだかなどを歪めることは許されないからそのプロセスを想像力で補ってドラマを演出することになる。「三国志演義」はこのレベルだろう。
 factを無視すればfantasyになる。「三国志」で言えば月刊少年マガジンで連載中の「龍狼伝」などがそれに当たる。この漫画は現代人が三国時代にタイムスリップしたという設定で、登場人物のキャラクターはある程度「三国志演義」を踏まえているが、物語は歴史的事実を殆んど無視している。fictionはfactに基づくがfantasyではfactさえ無視して物語を作る。当然のことだがこれは最早歴史ではない。
 「日本書紀」は天智・天武の時代についてはかなりの歪曲が見られるがそれ以外については正直であろうと努めているようで、都合の悪い話も堂々と記録として残されている。曖昧な記述もあるがこれは嘘を後世に残さないための精一杯の努力だと思える。この正直さは日本人の国民性だろう。その一方で王朝が代わる度に歴史を抹殺した国がある。恥ずかしい事実を記録に残したくないと考えたのだろう。factが無くなればfantasyが歴史の代用品になる。しかしこれは歴史の捏造だ。文字が無かったために歴史が残らないという例は多いが、文字があったのに歴史が残っていないのは異常なことだ。
 「である」と「であるべし」はしばしば対立する。しかし少なくとも歴史と科学においては絶対に「である」に忠実でなければならない。どれほど醜くかろうともfactが優先されるべきであり、factよりもfantasyを好む人には正しい歴史認識は不可能だ。

傷の治療

2014-03-17 09:37:50 | Weblog
 切り傷は縫合すれば治る。しかしこれが可能であるのは自然治癒力が働くからだ。もし自然治癒力が働かなければ縫い糸を抜くことはできず、細胞と同化する接着剤によって傷を塞ぐような方法が必要になるだろう。
 傷の治療は自然治癒力を前提としている。言い換えれば自然治癒力に頼っている。医療の主役は自然治癒力と免疫力であって脇役の医師にできることはその支援やそれが働くまでの時間稼ぎに過ぎない。
 壊れた金槌なら物理的手順だけで直せる。それは元々有機的には繋がっていないただの連結物だからだ。生物の体は違う。外れた部分を単にくっ付けるだけでは治らない。一体化されなければ腐ってしまう。
 動物の自然治癒力と免疫力は素晴らしいシステムだ。病原体に冒された時に発熱するのは熱に弱い大半の病原体の働きを抑えると同時に免疫力を高める効果も持つ。だから解熱剤を使えば病気は悪化する。
 捻挫などをした時に患部が腫れて熱を持つ。これも自然治癒力が働くために必要な反応なのだろう。
 スポーツではアイシングやコールドスプレイがしばしば使われているがこれが有効かどうかは疑わしい。EBM(Evidence-Based Medicine)に基づいているのだろうとは思うが、腫れるという生体反応を抑え込むことは危険なことと思える。冷やせば腫れることを防げるがそれが自然治癒力を阻害しているのなら逆効果だ。腫れないということと障害が起こらないということとは同じ意味ではない。
 変な比喩を使うが、火事になれば消防車が来る。火災も消防車も非日常なものであり異常な事態だ。この「異常」事態を治めようとして我々がすべきことは消防士に対する支援だ。異常なこととして消防士の妨害をしてはならない。異常時に起こる障害と防御反応は両方が症状と捉えられ勝ちだがこれらは明確に区別されるべきだ。火災と消防を同一視してはならない。数十億年掛けて進化した自然治癒力と免疫力を軽視することは小賢しい人類の傲岸不遜であるとさえ思える。

人件費

2014-03-15 10:09:21 | Weblog
 業種によってかなり異なるが、企業の人件費比率は1割程度と言われている。人件費は経費と位置付けられているが、私は資産だと思っている。人材ではなく人財だとさえ考えている。勿論こんな会計処理は認められていない。
 今年の春闘では多くの企業がベースアップを実施するようだ。私のような退職者は蚊帳の外だが、ようやくまともな社会に戻りつつあると思う。給料が10%上がった場合、その人の収入は10%近く増えるが企業の経費はたった1%しか増えない。リストラムードに便乗して削り易い所を削ったから悪循環を招いてデフレ状態が続いていたのだと思う。
 全員の給料を上げなくてもこんな方法もある。「担当する仕事上での経費を1%削減すれば給料を10%上げる」こんな課題を与えられたら殆んどの人が目標を達成するだろう。交通費や備消品や残業代など、自力で削減できることは幾らでもある。諸経費を1%削減すれば人件費を10%増やしても経費増にならないということはコロンブスの卵のような話ではないだろうか。人を絞るよりも知恵を絞るほうが会社にとっては有益だろう。
 かつてフォード社は大量生産方式によってT型フォードを格安で販売して売り上げを増やし、同時に賃金を大幅に引き上げたそうだ。豊かになった従業員は我先にとT型フォードを購入したのでフォードの売り上げは更に増えたそうだ。
 従業員は消費者でもある。従業員の給料が増えれば消費も活発になる。今年の春闘で自動車などの輸出関連企業だけではなく妙に小売業者の賃上げが目立つのはこんな事情を知っているからではないだろうか。正に、情けは人のためならず(巡り巡って自分のためになる)、だ。

検証

2014-03-15 09:44:29 | Weblog
 事実かどうかは検証されねばならない。疑わしいことを検証しなければ嘘が事実に化けてしまう。
 STAP細胞が疑わしければ検証する必要がある。科学とはそういうものだ。最初から完全な研究などあり得ない。公開された情報を世界中の学者が検証して問題点を解決するからより優れた研究結果が生まれる。批判の自由が科学を進歩させる。
 但し、捏造か否かを問うようなマスコミの姿勢には大いに不満を感じる。まるで贋全聾の佐村河内氏を追及するようなスタンスだ。科学は批判によって進歩するが吊し上げで進歩する訳ではない。批判が魔女狩りであるべきではない。あくまで建設的な批判であるべきだ。
 その一方で「河野談話」を見直さないことを安倍首相が発表した。これは当然検証されるべきものだろう。疑わしいものは検証して誤っていれば修正する、それは学問であれば当然のことだ。つまりこれは事実よりも政治を優先した政治的判断だ。韓国とアメリカの圧力に屈したということだ。政治が屈してもマスコミまで同調する必要は無いのだが一向に追及する気配は無い。
 一方では疑わしいからと追及し、一方では疑わしくても放置する。これはマスコミのダブルスタンダードだ。科学であれ歴史であれ検証の自由が無ければ嘘が罷り通る。
 科学と歴史において最も厭うべきものは捏造だ。捏造は許すべきではないが誤りであれば正せば済むことだ。捏造か誤りかは区別し難いが、初めから捏造として非難するのではなく誤りを正すという姿勢であって欲しいものだ。

親日論

2014-03-13 10:12:04 | Weblog
 中国と韓国による反日論は読み飽きた。他の国による日本批判を探そうとすると、これが意外と難しい。見つかるのは殆んどが親日論か日本贔屓だ。過大評価だと思ってこちらが恥ずかしくなることさえある。
 マスコミやネット情報はなぜこんなに偏っているのだろうか。特にネット上での海外ニュースは半分以上を中国と韓国が占める。最近でこそロシアとウクライナに関する記事も多いが、いくら隣国とは言え偏り過ぎている。英独仏のような馴染み深い国の情報さえ滅多に無く、北欧諸国や中南米・アフリカの情報に至っては殆んど皆無だ。隣国の筈の台湾の情報も余りにも乏しい。
 米中韓に偏っていることは問題だ。私はこの3国が三大嘘つき国でロシアが4番目だと思っている。嘘つきの放言を無暗にメディアが取り上げるべきではない。そんなことは週刊誌にでも任せておけば良い。
 米中韓に偏るから日本に対する評価もデタラメになる。歪んだ鏡を見ていれば正しい姿を知ることはできない。人が自分の姿を直接見られないように、自国の姿を知るためには他国による評価が手掛かりになる。参考になる調査は無数にあるのでほんの一部しか紹介できないが、これらを見れば日本および日本人が国際的にどれほど高く評価されているかがよく分かる。
 最も新しい資料はOMGが3日に発表した「最も賢い国」で、日本が1位に選ばれた。昨年10月に発表されたOECDによる「大人の学力テスト」でも日本人は1位だった。BBCによる「世界に良い影響を与える国」では2012年は1位で2013年は4位だった。ランクが下がったのは中国人と韓国人だけが極端に低い評価をしたからだ。アメリカの旅行会社エクスペディアによる「ベストツーリスト」では毎年1位だ。あるいはアメリカの情報サイト「Mamolith」による「美女が多い国」ではアジアではトップの9位にランクされた。これは単に外見だけではなく品性も含めて評価されたのだと思う。
 特に親日派が多いのはトルコと台湾だが、こうやって見ていれば日本および日本人は非常に高く評価されていることが分かる。世界中で中国と韓国だけが反日国だが、彼らは、ナチスがユダヤ人を敵視してゲルマン民族の団結を図ったように、国内問題を誤魔化すために日本を敵視しているだけだ。こんな国による誹謗中傷を気にするのは「人が犬を噛んだ」というニュースに大騒ぎするようなものだ。

車道側(2)

2014-03-13 09:33:43 | Weblog
 道路交通法第63条の4で「自転車は当該歩道の中央から車道寄りの部分を徐行しなければならない」と定められている。これを守ることによって自転車も歩行者も安全性が高まる。それなのに殆んど守られていない。そんな規則があることさえ充分には認知されていないようだ。自転車で通学する生徒は学校から許可証を貰うのだからその時に教育することが一番の近道だろう。それも「規則だから」と教えるのではなく、なぜそうするべきなのかを理解させる必要がある。(車道側通行が安全である理由については昨年12月1日付けの「車道側」参照)
 教育ではなく厳罰化を考える人もいるだろうが、知られていないルールを厳罰化しても効果は乏しい。むしろ歩道の構造を変えることによって自らの意思で車道側を走るように仕向けるほうが有効だろう。つまり車道側を走り易くすれば誰もが自らの意思でそちらを通るようになる。
 現在の歩道は車道側も建物側も同程度に凸凹で、どちらかと言えば建物側のほうが少しだけ平坦だと思える。これを、車道側をできるだけ平坦にすれば自転車はそちらを選ぶようになる。ルールで縛るよりも当事者が自らの意思でそうするような仕組みを作ったほうが確実に定着する。
 多くのショッピングセンターの従業員用通路は客用通路よりも使い勝手が悪く不便な場所にある。そのために従業員による客用施設の使用禁止令がしばしば通知されるそうだ。ディズニーランドではそんな問題は発生しない。それは真っ先に一番便利な場所に従業員用通路を作るからだ。従業員は当然一番便利で快適な従業員用通路しか使わない。これは単に従業員を快適に働かせるためではない。顧客サービスでもある。非常時、例えば客が場内で意識を失った場合、従業員通路を通って目立たず最短距離で搬送することができる。
 人がルールに従わないのはルールが悪いからという可能性がある。例えば混雑する駅構内では自然発生的に左側通行になる。ルールに従わせようとするよりも、そのルールがなぜ守られないのかを検討して全体の仕組みを見直したほうが抜本的解決に繋がり得る。