俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

喫煙者差別

2014-03-11 10:13:45 | Weblog
 「喫煙者は2割しかいないのだから特急は全席を禁煙にすべきだ」こんな主張を聞く度に「?」と思う。もし本気で言っているのならもっと少数者である盲人や車椅子の人の権利はどうなるのだろう。障害者の権利は守らねばならないが喫煙者の権利は無視しても良いと言っているとしか思えない。
 「煙草は有害物だから」と付け加えるかも知れない。有害かも知れないが本人にとっては有益だからこそ喫煙する。感情が安定するなどの効果があることは確実だ。増して煙草は禁止薬物でも何でもない。多分、酒のほうが遥かに有害だろう。アルコール中毒や肝機能障害だけではなく二日酔いもアルコールが原因の疾病だ。あるいは酒に酔って暴れる人はいるが煙草で暴れる人はいない。酒のほうが有害なことは明らかだ。喫煙有害説そのものにも疑問がある。多分日本で最も喫煙率の高い企業のJT(日本たばこ産業)社員の平均寿命はかなり高いらしい。これは他企業よりもストレスが少ないせいではないだろうか。
 なぜ喫煙者はこんなに差別されるのだろうか。それは喫煙者を差別しても構わないという風潮があるからだ。喫煙者という理由だけで、就職であれ結婚であれあるいは施設の利用まで差別しても構わないとされている。就職において男女や学歴などによる差別を糾弾する人権派と称する人々が、なぜ喫煙者差別なら容認するのか理解に苦しむ。差別したい人にとって喫煙者ほど有難い対象は無い。自分達とは異なる喫煙者の権利をどんどん剥奪することは至上の快楽だ。部屋から追い出されて猛暑や寒風に耐えるホタル族には更に追い打ちが掛かっている。近隣住民によるクレームだ。喫煙者の権利は無制限に剥奪される。
 新型インフルエンザの患者であっても人権には充分に配慮されねばならないのに、喫煙者なら無条件に差別できる。憂さ晴らしのためには喫煙者は最高のスケープゴートだ。
 私は、差別される少数者の立場に立つためにも、絶対に喫煙者であることをやめまいとさえ思っている。

ジェネリック

2014-03-11 09:43:40 | Weblog
 ジェネリック医薬品は先発品と同じ薬ではない。同じ物であるかのように宣伝している企業は誇大広告をしている。こんな企業の製品は疑って掛かる必要がある。
 ジェネリックは薬の主成分だけが一緒で副成分は異なる物が大半だ。主成分だけしか同じでなければ効き目は全然違う。これは他のメーカーの自動車の外観だけを模倣しても性能は全然違うのと同じことだ。
 主成分の特許は物質特許と呼ばれている。ジェネリックはこの物質特許期限が切れた薬の模造品だ。多くの場合、副成分などの製剤特許の期限は切れていない。容易に推定できることだが、主成分と副成分は複合的に働いて効果を高める。だから副成分が違えば別の薬だ。
 しかし稀に、先発品よりもよく効くジェネリックもあるらしい。製剤特許が切れていないので他の副成分で代用したところ、怪我の功名で一部の人にとってはオリジナルよりもよく効く薬ができることもあるそうだ。
 ジェネリックの長所は今のところ安さ以外が訴求されることは無い。こんなやり方では、安かろう悪かろうの「ゾロ品」と区別できない。こんなことをしているからアメリカでは9割、ドイツでも8割のシェアを占めるジェネリックが日本では僅か27%のシェアしか得られていないのだろう。
 バーゲンセールは強力な販促策だ。それは既に知られている商品が安く売られているからだ。知らない商品を安売りしても魅力は無い。ただの粗悪品と判断されるだけだ。違った品であれば品質と価格の両面を訴える必要がある。ユニクロが成功したのは安さだけではなく品質を訴えたからだ。ジェネリックも中国企業によるパクり商品のような売り方ではなく高品質な贋物であることを堂々と訴えるべきだ。少なくとも先発品と同じであるかのように訴える嘘に頼ることはやめるべきだ。こんなやり方をしていれば賢い消費者からは見向きもされない。先発企業にいつまでもボロ儲けをさせるべきではない。安くて良い品が普及することは国民にとっても国にとっても良いことだ。
 私自身は薬を殆んど使用しない。薬は毒物だと思っている。しかし毒を以って毒を制さざるを得ない場合もある。そんな時には賢い患者でありたい。

冤罪?

2014-03-09 10:18:51 | Weblog
 平成20年に難波で起こった個室ビデオ店放火殺人事件の上告が6日に棄却され、小川被告の死刑が確定した。16人の殺害であれば重大犯罪だが、そもそもこれは殺人事件なのだろうか。警察による事情聴取で「生きているのが嫌になり衝動的に火を付けた」と自供したとされているが、被告はその後、一貫して否認している。これでは被告が本当に火を付けたかどうかさえ疑わしい。
 警察は自供させるために容疑者を徹底的に追い詰めて錯乱させようとする。これまでに何度もこの手口で冤罪事件を生んでいる。精神的に追い詰められた容疑者は半分錯乱しているので最後には諦めて何と言われても頷いてしまう。「皆殺しにしたかったのか」「誰でも良かったのか」「社会に復讐したかったのか」こんな警察が思い描いた物語に沿った誘導尋問に頷かせて調書をでっち上げるのが彼らの常套手段だ。時には「後で取り消すチャンスは何度でもある」と騙してサインさせることまであるらしい。勿論、調書にサインをしてしまえば一巻の終わりだ。冷静になってから取り消そうとしても取り消せない。
 16人死亡という事実は重い。しかしこれは通り魔事件のような無差別殺人ではないし、殺害のために放火した訳でもない。被告がやったとされているのは火を付けたということだけであり、火が燃え広がったのは建造物の欠陥や従業員の怠慢に負う所が大きい。それにも拘わらず店もビル管理会社も過失致死罪にさえ問われていない。著しく公正性を欠いている。
 殺意の欠片も見られない被告が死刑にされるのは現住建造物等放火罪が殺意の有無を問わない特殊な法律だからだ。放火という行為だけで殺意があったと見なす特異な法律だ。確かに放火は不特定多数に危害を及ぼし得る危険な犯罪だが「殺意の無い殺人」という概念は形容矛盾ではないだろうか。この法律は見直す必要があるように思える。
 裁判長は「被告は全面的に否認し続けており真摯な反省の態度は窺えない」から「死刑はやむを得ないと判断した」そうだ。冗談じゃない!冤罪であれば否認するのは当然だ。それを反省していないからと極刑にするなんて余りにも理不尽だ。放火と認めたら死刑、認めなければ死刑、これではまるで中世の魔女裁判だ。
 こんなデタラメな死刑判決を許すべきではなかろう。16人の犠牲者を弔うために死刑にするのなら古代の生贄の儀式のようなものだ。こんな酷い裁判をマスコミが問題にしないのも不可解だ。概してマスコミは犯人探しは大好きだが冤罪の恐怖に対しては無頓着だ。

鎮痛剤(3)

2014-03-09 09:33:07 | Weblog
 風邪薬ほどではないが鎮痛剤も有害な薬だ。風邪薬は病気を悪化させるが鎮痛剤は病気による痛みだけを誤魔化す。
 骨を折った時に鎮痛剤で誤魔化して何も治療をしなければどうなるだろうか。通常通りに使い続けるから骨がすっかり変形してしまうだろう。
 肩に炎症のある投手が鎮痛剤で痛みを消したらどうなるだろうか。実際には炎症があるのに炎症が治ったものと錯覚して酷使するから更に悪化する。昔、鎮痛剤で痛みを消して甲子園で連投した投手がいたが確実に選手生命を縮めていた。
 鎮痛剤を飲んで頭痛が治まった時に人は頭痛が治ったと勘違いする。とんでもない話だ。頭痛を感じなくなっただけであり病気はそのまま放置されている。対症療法の致命的な欠陥だ。痛み止めは治療ではない。単に神経を狂わせて一時的に痛みを感じなくさせているだけだ。
 鎮痛剤を使って良いのは次の4つのケースぐらいだろう。
 まず二日酔いや生理痛のように原因が分かっており放っておいても治る痛みなら、とりあえず今の不快感さえ抑えれば良かろう。
 次には手術などの非常時だ。切ったり継いだりするのだから必ず痛みを伴う。原因が明白な痛みを我慢する必要は無い。
 3つ目は治療までの一時凌ぎだ。
 最後に末期症状の時だ。癌などの末期症状の痛みに耐えるか多少余命が縮んでも痛みを緩和するかは当事者が選んで良かろう。
 痛みは警鐘だ。何らかの原因があるからその結果として痛みが生じる。原因を放置して結果だけに対応しても問題は解決されない。それは危険を知らせる警報器や火災報知機が鳴った時に、うるさいからと切ってしまうような愚行だ。テレビCMが頻繁に放映されているが鎮痛剤は危険な薬だ。市販されている医薬品で重篤な副作用が多いのは①風邪薬②解熱鎮痛剤③漢方薬とのことだ。鎮痛剤はその機能が危険を招くだけではなく副作用も多い。

現状維持

2014-03-07 10:03:06 | Weblog
 現状を維持することは大変なことだ。金メダリストであれ世界チャンピオンであれ流行作家であれ、その地位を保つためには大変な努力が必要だ。ダルビッシュ投手や田中投手などは全力で努力を続けなければ現状を維持できない。
 ではなぜ現状維持という言葉が消極的なイメージを与えるのだろうか。殆んどの人が努力を怠って低レベルに安住しているからだ。頑張っていなかった人は少し努力しただけで向上できる。例えば成績がビリの人なら少し努力すればビリから2番目に上がれるだろう。こういう人が現状維持を馬鹿にする。レベルの高い人ほど現状維持は難しく、低レベルの人ほど簡単に向上できる。低レベルの人が現状維持を馬鹿にして向上しなければならないと主張する。
 老人にとっても現状維持は至難の業だ。精一杯努力しても衰えを免れることはできない。認知症にならないために我々はどれほど努力せねばならないだろうか。体力を衰えさせないためにも血の滲むような努力が必要だ。それでも老化を免れることはできない。
 老化が現れるのは徐々にでも突然にでもないだろう。周期的に現れて進行するものと思われる。調子の良い日と悪い日が周期的に現れて徐々に悪いほうへと全体がシフトする。私自身、頭が良く働く日と働かない日があり、徐々に働かない日が増えている。
 「鏡の国のアリス」の赤の女王の言葉「全力で走らなければ今の場所に留まることはできない」はジョークではなく事実だ。動物は必死になってようやく生き延びられる。大した苦労もせずに生きられるのは人類の一部だけだ。微温湯に浸っている者だけが現状維持を蔑視する。大馬鹿者は現状を破壊するだけでより良い世界が生まれると妄想する。現状を維持することは実は至難の業だ。

食品添加物

2014-03-07 09:38:35 | Weblog
 加工食品には様々な化学物質が含まれており、主に3種類に分類できる。素材に元々含まれているもの、添加されるもの、混入されたもの、だ。誤解され勝ちなことだが、食品添加物による被害は日本では殆んど起こっていない。森永砒素ミルク事件もカネミ米糠油事件も添加物ではなく混入物による事故だ。怖いのは添加物ではなく混入物だ。
 添加する理由は2つに分類できる。品質を高めるためか偽装をするためだ。保存性を高めたり味を良くしたりするための添加は品質向上と言えるが着色料は偽装に該当すると思う。中国ではメラニン混入牛乳というとんでもない偽装事件があった。牛乳を水で薄めた上で蛋白質含有量を増やすために有害物質のメラニンを添加していたという事件だ。
 メラニンは論外だが、添加物の殆んどが品質向上に役立っている。防腐剤を毛嫌いする人がいるが、もしこれを使わなければ食中毒の危険性は数百倍になるだろう。防腐剤が無ければ消費期限は半分以下になり、常温流通ができない食品の価格は高騰して廃棄ロスも増える。ロスが増えれば元々低い食品自給率は更に低下する。
 勿論、防腐剤の危険性はゼロではない。しかしゼロでなければならないという発想は余りにも幼稚だ。有るか無いかではなく有害になり得る量かどうかを科学的に判定する必要がある。かつてコゲに発癌性があると騒がれたことがあった。あとで分かったことだが、それは毎日コゲばかりをバケツ1杯分数十年食べ続けて初めて有害になり得る程度の発癌性だった。飛行機にせよ自動車にせよ危険性はゼロではない。それでもこれらを利用するのはこれらによるメリットと比べればデメリットの起こる可能性が小さいからだ。防腐剤についてもこれと同様にメリットとデメリットを秤に掛けるべきだ。簡単に言えば、防腐剤の危険性よりも食中毒の危険性のほうが遥かに高いということだ。食品添加物による事故は殆んど無いが、新鮮な筈の食材による食中毒は頻繁に起こっている。無添加食品は世間の常識とは逆であって、実は危険な食品だ。
 食品添加物の危険性に脅えるよりも薬の危険性を心配すべきだろう。食品添加物の量は人体に悪影響を与えない範囲に抑えられているが、薬は体に異常反応を起こさせることを目的としているのだから食品添加物の数百倍・数千倍危険と認識すべきだろう。

焚書坑儒

2014-03-05 10:30:42 | Weblog
 初めて中国を統一した秦の始皇帝はその偉業にも拘わらず決して評価は高くない。特に問題にされるのが焚書坑儒だ。このことによって多くの貴重な文献が失われた。 
 とは言えこれは紀元前3世紀での話だ。中国は流石に文明国でありこんな蛮行が大規模に行われたことはその後は無かった。ところが15世紀までこんな馬鹿なことを繰り返していた国がある。朝鮮だ。朝鮮では王朝が代わる度にそれ以前の文化や歴史を否定した。1392年に興った李氏朝鮮は儒教を国教として仏教を弾圧した。この時多くの寺院や仏教美術品などが破壊された。文化財を守ろうとした人は異国の対馬などへ仏像等を持ち出した。こんな事情から日本には朝鮮時代の仏教美術品が多く残されている。これを韓国は日帝や倭寇が略奪した物として非難している。いい加減に歴史的無知を恥ずべきだろう。朝鮮に残せば破壊されるから国外へと持ち出したのであり、それを日本人が大切に保管したことに対しては感謝してこそ当然であり非難する理由は全く無い。対馬で堂々と展示されていることを考えればこのことは明白だ。もし略奪した物であれば、朝鮮半島に至近距離の対馬には置かずずっと遠くに持って行くだろう。対馬で展示されていることこそ略奪ではない証拠だ。これでは人道的配慮から亡命者を受け入れたことに対して拉致したと言い掛かりを付けるようなものだ。こんな馬鹿なことをしているからOINK(豚の鳴き声であり同時にOnly in Korea=韓国でしか通用しないデタラメ)などと世界中から馬鹿にされる。
 王朝が代わる度に文化財が破壊された朝鮮には史料が乏しい。現存する朝鮮最古の歴史書は何と1145年に書かれた「三国史記」だ。これが古代の新羅・高句麗・百済の歴史を記録している。多分それ以前に書かれていた歴史記録の断片を寄せ集めて都合の良いように取捨選択して書かれたものだろう。オリジナルの断片は都合の悪い歴史も記録しているので廃棄されたらしく全く残っていない。
 史料の乏しさが幸いすることもある。中国か日本にそれを否定する文献が無い限り朝鮮の歴史をどんなに荒唐無稽に描こうとも嘘とは証明されない。それどころか「日本書紀」や「宋書」などに記録が残っている任那の存在を、「三国史記」に記載が無いということを根拠にして否定する始末だ。こうして韓国の歴史はフィクションを通り越してファンタジーになる。韓国にとっての歴史とは想像・創造・捏造するものになってしまっている。

競争社会

2014-03-05 09:45:25 | Weblog
 メスは生存競争に耐えられれば良い。しかしオスはそれ以外に種族内競争(性淘汰)でも勝たねばならない。オスの性質が競争的であるのはこんな二重の競争に晒されているからだろう。
 メスが選ぶ側の性でオスが選ばれる性であることはよく知られている。出産あるいは産卵という大きな負担があるメスは、授精するという簡単な役割しか担わないオスを選り好みする。オスは他のオスよりも優れていることをメスに誇示できなければ子孫を残せない。二重の競争を強いられるオスは競争が苦手であれば落ちこぼれになる。
 しかし種族内競争で有利になる条件は殆んどが生存競争では役に立たないどころが不利に働く。クジャクのオスの豪華な尾羽が典型例だがあの巨大な尾羽は飛ぶためにも歩くためにも邪魔になるだけだ。種族内競争で有利になるために生存競争では不利になっている。
 競争的であるという性質も実はクジャクの尾羽と同様に生存競争では不利に働いているようだ。競争とは他者に勝とうとすることだ。生存の危機においても臆せずに正面から立ち向かうということだ。こんな匹夫の勇よりも危険を回避する臆病さのほうがずっと賢い戦略だと思える。極力逃げようとしてどうしようもなくなって初めて猫に噛み付く窮鼠のような戦略で充分だろう。
 競争的であれば攻撃性や興奮性も高まる。攻撃すれば自ら傷付くことも死に至ることもあるだろう。興奮すれば血圧が上がり内臓には余計な負担が掛かる。危険性が高まるだけではなく、競争的であること自体が個体にとっては有害だ。
 人類の種族内競争は特殊であり、性を巡る競争以上に地位を巡る競争が熾烈だ。権力や富を求めて男は必死で戦って消耗する。つまり男は三重の競争を強いられている。
 競争社会とはストレス社会でもある。男がお互いにとって敵同士であれば心の安泰が得られずストレスが溜まる一方だ。こうして免疫力まで低下する。
 男女の寿命差はこれが大きな原因ではないだろうか。男が出産の危険を負担しないにも拘わらず短命であるのは種族内競争という余計な競争のために命を削っているからではないか。健康と長寿のためには一刻も早く競争社会から離脱して無駄なことに生命力を浪費しないことが最優先課題だろう。

物語

2014-03-03 10:02:28 | Weblog
 フィクションのストーリーなら好きなように作れる。自分が納得し読者あるいは視聴者が満足するように物語を作れば良い。ところが歴史や科学などの事実は思い通りにはならない。全く不本意な結果になることも少なくない。前者は「かくあるべし」で貫けるが後者は「あるべきでない」ことが起こる。偏狭な人は前者を好み、思慮深い人は後者に従う。不都合な事実は必ずあるのだがそれを認めようとしない人は決して少なくない。
 坂本龍馬は志半ばで暗殺され、織田信長は本能寺の変で殺された。これらはあるべきでないことだった。しかし史実だから変えようが無い。フィクションであれば絶対にこんな結末にはしない。坂本龍馬は総理大臣か大経営者になるだろうし、織田信長なら明を倒しさらに世界制覇をしても構わない。勿論これは歴史ではない。歴史上の人物を使ったフィクションだ。
 iPS細胞は人類救済に役立たず応用の利かない科学に終わるかも知れない。しかしそれが事実であれば受け入れるしか無い。徒労に終わる科学は無数にある。
 浅田真央選手や高梨沙羅選手がメダルを逃すなんて考えられないことだった。しかしそれは実際に起こった。この事実を受け入れるしか無い。
 受け入れ難い事実に直面すれば人は自ら喜んで嘘を受け入れる。例えば大切な人の死を認めたくない人は天国へ行ったのだと信じ込む。不快な事実よりも快適な嘘を人は好む。
 不遇の人は虚構に憧れる。虚言癖の人は惨めな境遇を忘れるために自らの意思でファンタジーへと逃避しようとしている。精神の安定のためにファンタジーを捏造することは許容されても良かろう。しかしそれを外部に発信して信じることを強要するなら狂人だ。オウム真理教徒のようなものだ。
 事実は重い。ハッピーエンドに捻じ曲げようとしても徒労に終わる。そんな妄想に逃避することなく、事実に対して忠実であり続けたいものだ。主観世界だけではなく歴史や科学まで捏造することは人類の叡智に対する冒涜だ。

オスとメス

2014-03-03 09:29:49 | Weblog
 殆んどの動物と同様、人類のオスは競争的でメスは協調的だ。これはオスとメスの優劣という意味ではない。異なった戦略を同時に採用することによって種としての繁栄が可能になっているということだ。またこれは絶対評価ではなく相対評価でありあくまで平均値としての差異だ。協調的なオスも競争的なメスもいる。あるいは文化によっても異なる。日本人は協調的であり、中国人・韓国人・アメリカ人などは競争的だ。
 オスは競争するために存在する実験体だ。オスは個体レベルでのバラ付きが大きい。オスの授精力は殆んど無限なのだから適応できれば多くの子孫を残すしデキが悪ければ淘汰される。最も多くの子孫を残したのは史上最大の帝国を築いたチンギスハーン(ジンギスカン)だと言われている。どこまで本当なのかよく分からないが彼のY遺伝子を受け継ぐ男性はアジアからヨーロッパにかけて約1600万人いるそうだ。X遺伝子も含めれば約3200万人になる。
 哺乳類のメスには授乳という大切な役割がある。オスには不可能な業務だ。人類のメスにとって絶対に欠かせないのは乳児の欲求を理解する能力だ。言葉を持たず泣くだけの乳児を正しく育てるためには高度な共感力が必要だ。これが協調性に繋がる。
 競争的や協調的という性質は先天的でありかつ後天的でもある。先天的に備わった特性は後天的に更に強化される。遺伝的に優れた身体能力を持った人がその才能を生かすために鍛錬に励んで超人的な力を発揮するのと同様に、先天性の違いは後天的に増強される。
 平均的男性よりも競争的な女性もいる。そんな人は競争社会に参入すれば良い。それは個人の自由だ。私はむしろ協調的なオスでありたいと思う。中韓米のような競争社会など真っ平ご免蒙りたい。古来「和を以って貴しとなす」日本人である私にとっては協調的社会のほうが居心地が良い。競争に参加する権利があるように、協調という戦略を選んで競争から離脱する権利も当然認められるだろう。