俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

タブー

2014-05-13 10:19:31 | Weblog
 漫画の「美味しんぼ」での原因不明の鼻血の描写についての批判が相次いでいる。私も早速1年半振りにビッグコミック・スピリッツを買って読んだが、科学的に正しい内容とは思えない。特に大阪でのガレキ処理場に関する記述は酷い。「焼却場の近くに住む住民1000人ほどを対象に、お母さんたちが調査したところ」「不快な症状を訴える人が約800人もあった」との記述は「風評加害」だろう。此花区の焼却場は人工島にあって「近くに住む住民」などいないし、「不快な症状を訴える人」の定義も曖昧だ。「眼、のどや皮膚などに不快な症状」が全く無い人など日本に1%もいないだろう。
 しかしだからと言って言論を弾圧しても良いということにはならない。福島が安全であってほしいと私も思う。しかし願望よりも事実が優先する。願望に背くからと言って事実ではないと決め付けるようでは戦前の日本と同じレベルだ。当時、日本が危ない、と主張すれば非国民と非難されただろう。言論の自由が認められている現代の日本では発言は自由であるべきだ。国民が自ら言論を弾圧するようなら、共産党が言論弾圧をする中国以下だ。権力者がタブーを作ってはならないように、国民もタブーを作るべきではない。タブーを認めれば嘘が罷り通ってしまう。「美味しんぼ」での主張は政府・マスコミによる偏った情報提供に対する告発としては有意義だ。
 「風評被害を招く」という指摘は正しい。しかしそれでも封じ込めは良くない。批判を許さないことこそ、重大な事実を隠しているという勘繰りを招いて風評被害へと繋がる。政府とマスコミが重大な事実を隠しているのではないか、と多くの国民は疑っている。だからこそ批判を自由にした上で科学的に反論すべきであって「福島を悪く言うな」という感情的反発は逆効果だ。たかが漫画に環境庁や福島県がムキになって反発することこそ不自然であり、事実隠蔽を疑わせることになる。これらと比べて消費者庁の見解は好感を持てる。「漫画などに惑わされず、正確な情報を入手して賢明な判断をしてほしい」とのことだ。
 私がこの漫画に感じる最大の不満は「福島」と一括りにしていることだ。汚染が酷いのは原発の北西地域であって、同じ福島県でも、阿武隈山地と奥羽山脈によって二度も遮られる会津地区の汚染は少ない。行政区画ではなく地理的条件をちゃんと把握して、福島県内でも隣県と同等あるいはそれ以上に安全な地域があることも書くべきだと思う。汚染度は行政区画とは無関係だ。

危険物

2014-05-12 10:12:06 | Weblog
 市販の薬は青酸カリよりも危険だ。青酸カリなら誰もが毒物と認識しているから厳重に管理される。ところが薬は毒物であることが忘れられている。用量を守っても副作用が起こり得るし、適正量の数倍を飲めば死に至ることもあるだろう。
 なぜこんな危険物が放置されているのだろうか。「痛くなったらすぐセデス」とか「効いたよね、早目のパブロン」といった服薬を煽るようなテレビCMが氾濫しているし、薬局だけではなくインターネットでも薬が買える時代だ。こんな治療どころか症状の緩和効果さえ無く、不快感を鈍感にさせるだけの薬に頼るべきではない。セデスはハデス(冥界の王)のようなものではないだろうか。薬は銃と同じくらい危険と認識すべきだろう。多くの薬には常習性があるだけではなく耐性を作るという大きな欠陥がある。例えば頭痛薬を飲み続けていればそれをやめられなくなりしかももっと量を増やすかより強力な薬に切り替える必要まで生じてしまう。当然、副作用も重大になる。
 薬の有効性を否定する気は無い。むしろ非常によく効くからこそ危険だと思う。サラリーマン時代、高熱のまま出勤して職場の診療所で貰った抗生物質を飲んだところ、数時間後に症状を全く感じなくなった。滅多に薬を飲まないから劇的に効いたのだろうが、効力に驚くと共に恐怖さえ感じた。ここまで見事に症状だけを抑え込む凄いレベルにまで対症療法技術が進んでいるのかと呆れた。
 症状が消えても治癒した訳ではない。体内には大量の病原体が残っている。こんな健康保菌者が感染を拡大させているのだろう。風邪やインフルエンザの症状を抑える程度なら許されようが、ペストやコレラなどの症状まで抑えてしまえば恐ろしいことになるだろう。
 殆んど報道されないが医原病や薬原病は極めて多い。ある長期療養者が投与された薬を飲まなかったところ主治医は「まれにみる驚異的な回復だ」と驚いたという実話もある。これは薬原病だったのだろう。
 こんな危険物を自らの意思で服用している人が残留農薬や食品添加物の危険性について騒いでいるのは滑稽でさえある。食品添加物などとは違って薬は人体に異常反応を起こさせることを目標にして作られた劇物であることを忘れてはならない。
 

農業振興

2014-05-12 09:36:05 | Weblog
 先進国では農業人口が減っている。それは農業が儲からないからではない。合理化が進むからだ。工業社会で農地を増やすことは難しい。農地面積が一定であっても、技術革新や機械化によってそれまでよりも少人数でも増産ができる。そうすると人員が余剰になる。余剰になった人が離農して工業や商業に従事すれば国力は高まる。先進国ではこうやって総ての産業が振興された。ところが日本だけはそうならなかった。兼業農家や退職後専業農家へと移行しただけだ。つまり家庭菜園付き一戸建て住宅が増えてこれが農家の6割を占めるようになったということだ。これでは農地の持ち腐れだ。限られた農地は有効に活用されるべきだろう。こんな事態を招いたのは農家に対する優遇策が手厚過ぎるからだ。相続税は格安であり、戸別所得補償やそれに類する優遇策があるのだから農家はその特権を手放そうとはしない。
 保護すべきなのは農業であって農家ではない。農業の発展に貢献しない零細農家に特権を与えているから名ばかり農家ばかりが増える。農家を支援するための政策が農業の劣化を招いている。
 米作りは非常に楽な農業らしい。殆んど放っておいても収穫できるからこそサラリーマンとの兼業や老人でも収益が得られる。金の成る木があるようなものだ。
 私は零細農家を淘汰せよと言いたい訳ではない。狭い日本の狭い農地を有効活用すべきだと言いたい。有効に活用されていない土地を、有効に活用できる事業者に転売あるいは賃貸すべきだと考える。農耕を放棄している土地にまで適用されている優遇税制を少し見直すだけで農地が集約化されて生産性が高まるだろう。
 農家の社会的使命は良質な農産物を適正価格で供給することだろう。その使命を放棄した名ばかり農家を保護する理由は全く無い。これは生活保護費の不正受給のようなものだ。世帯数では農家の6割を占めながら生産額では5%に過ぎない贋農家の離農を促さない限り、本物の農家による農業の振興はあり得ない。離農奨励策が必要なのではないだろうか。日本の農業を支えているのは少数精鋭の優良な農民であり彼らを支援する政策こそ農業振興のためには必要だろう。

領土

2014-05-10 10:15:53 | Weblog
 最近の中国がやたら海洋進出に熱心なのは領土には人が付属することを思い知ったからではないだろうか。私は敢えて変な表現を選んだ。本来の主役は人であり土地ではない筈だ。人に土地が付属すると考えたほうが自然だろう。
 しかし中国にとって必要なのは領土であり領海だ。領土や領海に資源があれば活用し、資源が無ければ放置できる。ところがその土地に人が住んでいればそうは行かない。国として最低限の生活を保証する義務が生じる。少なくとも最低限のインフラ整備が必要になるだろう。
 人民は従順な羊とは限らない。牙を剥く狼でもあり得る。ウィグルやチベットなどでの抵抗運動に手を焼きながらも手放そうとしないのは資源があるからだ。中国共産党はたとえ住民を皆殺しにしてでも領土を守ろうとするだろう。
 その点、無人島は理想的な領土だ。邪魔になる住民がいない。だから尖閣諸島や西沙諸島や南沙諸島を侵略しようとする。無人島を領土に組み込めば領海も広がるので一石二鳥だ。
 13億の人民を養うために資源が必要なことは理解できる。しかし国際秩序を無視した拡張主義は前世紀の帝国主義と同質のものだ。中国は国内法で「9段線」を定めて南シナ海の殆んど全域を自国領としている。当たり前の話だが国内法によって他国の権利を奪うことはできない。これはかつて韓国の軍事独裁政権が李承晩ラインを引いて竹島を自国領としたのと同じ暴挙だ。まだ排他的経済水域の概念が広く共有されていなかった1952年に国際慣習を無視した韓国よりも遥かに悪質な侵略だ。日帝はかつて侵略戦争をした。しかし中国は今現在も侵略を続けている。歴史認識についてゴチャゴチャ言うよりも現在進行中の侵略をこそ慎むべきだろう。

良いと悪い

2014-05-10 09:45:27 | Weblog
 食品に関して、あれが良い・これが良いと昔はよくテレビで報じられていた。バナナが良い、ココアが良い、レタスが良いと報じては、スーパーでの売り上げが急増したものだった。ところが2007年の「あるある大事典Ⅱ」での納豆ダイエット捏造事件を機に、あれが良いという話は少なくなった。代わりに、あれが悪い・これが悪いという話が氾濫するようになった。
 商業的には○○が良いという話のほうが都合が良い。納豆が良いという話なら納豆メーカーからの資金援助が見込める。豆腐が良いでも同様だ。ところが○○が悪いと騒いでも支援を見込みにくい。農薬が悪いと騒いでも喜ぶのは有機栽培の農家だけだからテレビ局としてはメリットが少ない。ではなぜテレビでは懲りずに、あれも悪い・これも悪いと騒ぎ続けるのだろうか。
 善意に考えれば、悪いと言っていれば大きな間違いを犯さないからだ。食品や食品添加物に限らず、交通機関であれ遊具であれ、あるいは酸素でさえ有害性は必ずある。その有害性を針小棒大に表現しても決して間違いではない。リスク・ゼロはあり得ないからだ。一方、絶対安全と保証することは殆んど不可能だ。
 昔「買ってはいけない」という酷い本があった。安全基準の数千倍・数万倍を投与して障害を起こさせて「危険だ!」と騒ぎ立てていた。水でさえ一度に10ℓも飲めば水中毒を起こすことを知らないのだろうか。
 悪意で考えれば、いずれ槍玉に挙げるぞという脅しなのかも知れない。どんな企業であろうとも叩けば埃は出るものだ。先日のレストランの偽装表示騒動での「鮮魚」は明らかに言い掛かりだった。槍玉に挙げられたくなければスポンサーになれという無言の脅しだ。
 しかし最も有害な物を批判しないのは困ったことだ。市販されている商品の中で最も危険な物は薬だ。毎日、多くの人が薬害を蒙っているのにその有害性が報じられることは滅多に無い。カネボウの美白化粧品の有害性も多分早くから分かっていただろう。隠しようが無くなるほどに被害が広まるまで沈黙を守るようではマスコミの良心を疑う。どうやら鼻薬が効き過ぎているようだ。

基準

2014-05-08 10:07:58 | Weblog
 5日の早朝、伊豆大島近海を震源とする地震があり東京では震度5弱が記録されたとしてテレビでは大騒ぎをしていた。東京での自然災害はいつも過剰に報道される。雨であれ雪であれ、地方であれば無視される程度の災害でも大騒ぎすることに日頃不満を持っていたが、テレビ局の反応は異常と思えるほど大きかった。一方、翌朝の朝日新聞名古屋本社版での扱いは驚くほど小さかった。社会面の隅っこで300字以下のベタ記事扱いだった。
 このギャップは一体何なのだろうか。そもそも本当に震度5弱だったのだろうか。震度5弱を記録したのは千代田区の地震計だけでそれ以外は震度4以下だったようだ。こんなことで多数決を使いたいとは思わないが、震度5弱という発表は妥当なのだろうか。何でも、千代田区の地震計は地震の度に東京での最大震度を記録するらしい。地盤が弱いのか震度計が狂っているのか分からないがそんな場所を基準にすべきではなかろう。
 関西人以外は余り知らない話だが、東日本大震災の際、大阪府咲洲庁舎のある旧WTCビルが約10分間、大きく揺れ続けて被災した。長周期地震動による特殊な事例らしいが、これを根拠にして大阪でも大きな揺れを記録したということにはなるまい。特殊なものはあくまで特例として扱われるべきだろう。
 マスコミとしては数字が大きいほど情報価値が高まるだろうが、特殊な数字で大騒ぎすれば空騒ぎになる。毎回最大値を記録する千代田区の地震計はあくまで特例扱いすべきだと私は思う。そうすることは決して情報隠蔽には当たるまい。危険に対する評価は過大でも過小でもなく適正であるべきだ。

立証

2014-05-08 09:39:48 | Weblog
 私は死刑支持者でも廃止論者でもない。制度としてあっても構わないとする消極的な容認論者だと思っている。しかし死刑は10年に1度もあれば充分だと思う。特別凶悪な場合のあくまで例外であって、冤罪の可能性が1%でもあれば死刑とすべきではないと考える。
 そんな立場から見ると廃止論者のアブノーマルさが目立つ。6日付けの朝日新聞の社説はそんな1例だ。「死刑に特別な抑止力があるかどうかは、立証されていない」として死刑廃止を訴える。何を寝呆けているいるのだろうか。社会制度は科学や歴史とは違って立証困難だということを理解できないのだろうか。それとも知っていながらわざと得意の責任転嫁をしているだけなのだろうか。科学や歴史であれば立証責任は「ある」と主張する側にある。STAP細胞であれ従軍慰安婦の強制連行であれ「白いカラス」の存在であれ、「ある」と主張する側が証明せねばならない。「ない」との証明は事実上不可能だからだ。
 しかし死刑の抑止力については立証不可能だ。日本では少なくとも鎌倉時代以降廃止されたことが無いからだ。こんな状況でどうやって立証できるのだろうか。できないことを立証せよと主張するのは詭弁以外の何物でもない。
 朝日新聞はなぜこんなに尊大なのだろうか。この傲慢さは中国共産党に似ている。斜陽産業の二番手企業でありながら殿様気取り・大審問官気取りだ。度重なる誤報を反省することもなく、今度は、死刑による抑止力を立証できないのなら廃止せよ、と主張する。根拠を示すべきなのは変革しようとする側であることは当然だろう。立証とは言い難いが、EUなど他国の実例を調べて、死刑廃止後、凶悪犯罪が増えていないことを示して同意を求めるべきだろう。それでもそれがそのまま日本に当て嵌まるかどうかは検討を要する。
 死刑廃止後、凶悪犯罪が減ったというデータは採用できない。それは死刑廃止によって減ったのではなく他の要因に依ると考えられるからだ。どの程度しか増えなかったかのみが根拠になり得る。増減ゼロであって初めて死刑廃止論は説得力を持ち得る。0.1%増なら意見が分かれるだろう。長期的なデータ分析が必要だ。その際、EU加盟のために死刑を廃止したトルコで死刑復活論が起こっているということも事実として無視すべきではなかろう。

コンビニ

2014-05-06 10:11:14 | Weblog
 コンビニが成功したのは規制対象外だったからだ。政府は大型店を目の敵にしていた。百貨店法から大規模小売店舗法、そして大規模小売店舗立地法に至る法による規制は総て中小小売店を守るためのものだ。これは決して商業を発展させるためのものではない。中小商店主とその家族の票を狙っただけのものだ。
 こんな規制のためイオン・グループは郊外出店を戦略として選んだ。当時は「タヌキがいるような場所に店を作れ」という方針だったと言われている。その結果、モータリゼーションが加速されて中小都市の中心部は寂れてシャッター商店街が生まれた。
 セブン&アイの戦略は違った。法に規制されないコンビニの出店を選んだ。法の規制は店舗面積が基準なので、それ以下の面積であれば何の規制も受けなかったからだ。
 構図を単純化すれば、イオンが中小都市を空洞化させ、その空白域をコンビニが埋めたということになる。
 イオンもセブン&アイも法規制に対応して戦略を立てたということだ。今年の決算を見る限りではセブン&アイの戦略のほうが優っていたように見えるがまだ最終決着ではない。国による規制が変われば状況は如何様にでも変わり得る。
 今後、人口が減少するに伴い人は都心に集中するものと予想される。その際、最も有利なのはコンビニでも郊外店でもなく都心の大型店だろう。品揃えと人員効率において大型店の優位性は揺るがない。
 人員効率の悪さは小型店の致命的な弱点だ。どんな小さな店であろうとも一人以上の店員を常時配置せねばならない。この弱点をフランチャイズ方式のオーナー制によって補っているがオーナーの負担が大き過ぎる。こんなやり方がいつまでも通用するとは思えない。コンビニ業界の話ではないが、和民やすき家のように求人難のせいで閉店ということもあり得る。小売業の勢力地図は今後まだ変わり得る。商業は恣意的な政策のせいで歪な方向に進化してしまったからだ。

排泄欲

2014-05-06 09:38:34 | Weblog
 排泄欲は欲なのだろうか。私は下痢持ちなので特に強く思うのだが、排泄の時間ほど無駄な時間は無い。最も減らしたいし、もし可能ならゼロにしたい時間だ。そうせざるを得ないことを「欲」と呼ぶことは無意味なのではないだろうか。例えば腰痛の老人が腰を屈めるのは「屈身欲」があるからではない。足を痛めた人がビッコをひくのは「ビッコ欲」があるからではない。こう考えると「睡眠欲」も疑わしい。これも「したい」のではなく「せざるを得ない」だけだ。あるいは喉が渇いた人が水を求めるのは「摂水欲」によるのだろうか。「飲酒欲」なら多くの人が持っていそうだが「摂水欲」は欲とは言い難い。
 私は欲を分解して捕える。通常「食欲」と呼ばれるものを「満腹欲」と「美食欲」に分けて考える。前者は空腹を満たしたいという消極的な欲であり、後者は旨い物を食べたいという積極的に快楽を求める欲だ。性欲なら、誰でも良いから性行為をしたいという「情欲」と、特定の人との関係を深めたいという「愛情」に分けて考える。
 たとえ言葉としては「したい・欲しい」であっても消極的な欲求を「欲」と呼ぶ必要は無かろう。実際の話「トイレに行きたい」を英語では`Nature calls me.'と表現する。この文章には「欲」ではなく「自然」があるだけだ。広い意味での生理現象は欲ではなく動物として強制される行為なのではないだろうか。
 人が何等かの行為を選択するのは欲求があるからだ、という前提が間違っているように思える。自然界の一員でもある人間は動物的行為から逃れられない。これを人間的な欲と同一レベルで考える必要はあるまい。マズローのように欲をレベルによって分類するのではなく、同一視されている欲が実は多重性を持っているということに注目したい。
 人の行為には必ず動機がある。しかしそれは必ずしも「欲」ではない。動物として必ずしも必要でないことに執着することに限って「欲」という言葉を使うべきだと思う。I wantとI needは区別されるべきだろう。

不確実

2014-05-04 10:02:02 | Weblog
 昔「日本沈没」という映画でこんなシーンがあった。主人公の科学者が地殻大変動の危機について説明していると「それは確実なことではない」と官僚が指摘した。科学者は怒って「確実になってからでは手遅れになる」と反論した。そのとおりだと思った。
 しかし現代社会では不確実なことを騒ぎ立て過ぎる。大地震が起こるとか温暖化によって多くの都市が水没するとかいった形で危機を煽る。彼らの主張も「確実になってからでは手遅れになる」であって実際のところどうなのかについての明確な根拠の無いまま対策を急がせる。
 癌の早期発見・早期治療についても同じ胡散臭さを感じる。本当に早期発見・早期治療は有効なのだろうか。
 早期発見されるものは癌なのか良性腫瘍なのか区別できないものが殆んどだ。早期治療が成功したとされる手術の大半が良性腫瘍で、近藤誠医師の言葉を借りれば「がんもどき」なのではないだろうか。
 早期発見のための検査漬けも大問題だ。CTにせよX線にせよ被曝量は無視できない。早期発見により助かった人よりも検査被曝によって癌に罹った人のほうが多いのではないだろうか。
 殆んどの中高齢者の脳には動脈瘤があるそうだ。これを一々手術していたら動脈瘤の破裂で死ぬ人よりも手術の失敗で死ぬ人のほうが多くなるから大半は放置されているらしい。
 癌も手術によって治療できるのは「がんもどき」だけであって癌であれば見付かった時点で既に転移しているらしい。それなら検査も手術も無意味だ。癌検診によって放射線を浴びるだけ丸損だ。私は癌検診を受ける気は無いし癌と分かっても手術を受けようとは思わない。勿論これは現在の医療レベルでの話であって、将来、飛躍的に治療法が向上したら考えを改めるだろう。